2023年7月5日水曜日

「釜山・福岡超広域経済圏形成に向けた協力事業推進に関する合意書」(2009年8月28日、両市長および商工会議所会長署名)

 「釜山・福岡超広域経済圏形成に向けた協力事業推進に関する合意書」(2009年8月28日、両市長および商工会議所会長署名)


協力事業推進の合意書

 「釜山・福岡超広域経済圏形成に向けた協力事業推進に関する合意書」(2009年8月28日、両市長および商工会議所会長署名)の全文は次のとおり。

 大韓民国東南圏と日本国九州の主要都市である釜山広域市と福岡市は、2008年10月20日に署名した釜山・福岡超広域経済圏形成に向けた共同宣言文に基づき、両市の繁栄と、国境を越えた東北アジアをリードするグローバル超広域経済圏の形成に向けて、次のとおり合意する。

 1,両市は、釜山・福岡超広域経済圏形成に向けた協力事業として、4の基本方向、9の戦略に基づく23の細部推進事業、64の課題に関して別添のとおり確定し、段階的に協力して推進していく。

 1,両市は、協力事業について「釜山・福岡経済協力協議会」を中心として推進するが、その実務的な運営を担当するため関連団体・機関から構成される「協力事業推進委員会」を設置し、協力事業の進捗状況把握、評価、事業計画策定などを行う。

 1,両市は、可能な限り早い時期に経済協力事務所を相互に開設し、同事務所と関係機関・企業の連携のもと、協力事業を実施するとともに、両国政府に対して、超広域経済圏の実現のために必要な制度や資金支援等について要望していく。

 1,両市は、協力事業を通じ実質的な相互協力体制の地域経済共同体を構築し、漸進的には大韓民国東南圏・日本国九州まで拡大していくことで、東北アジアをリードする超広域経済圏として飛躍する。

4の基本方向、9の戦略

 「4の基本方向、9の戦略」は概要次のとおり。

 Ⅰ 未来志向のビジネス協力促進 ①企業間協力の環境づくり(中小企業間交流の支援、鮮魚市場など市場間交流、共同ブランドの創設)②未来型産業の育成(IT・自動車関連産業の交流促進、環境・エネルギー産業連携体制の構築)③相互投資促進(企業誘致の相互協力、韓国企業の上場に関する福岡証券取引所に対する支援)④観光コンベンションの交流協力(両都市への観光客誘致促進=釜山‐福岡アジアゲートウェイ2011の推進)

 Ⅱ 人材(海峡人)の育成・活用 ①若き人材の育成(相手国文化・言語の学習機会の充実、青少年・大学生の交流促進)②即戦力、実務型人材の活用(インターンシップの受け入れ支援、専門人材マッチングへの協力)

 Ⅲ 日常交流圏形成 ①交流圏形成の環境づくり(友情年の認定事業の継続開催、超広域経済圏の広報体制強化)②人とモノの移動における利便性の向上(電子マネーの利用環境づくり、両都市を結ぶ交通手段の充実、相手国の言語表記の拡大)

 Ⅳ 政府への共同要望・建議(出入国及び通関手続きの利便性向上、両地域の協力事業に対する財政的支援)




日韓両国民の国民性(張実圭氏の指摘)

 

2011.2.9 民団新聞に掲載された、張実圭氏が投稿した「福岡-釜山経済協力事務所所長:未来志向で「共同体」着実に」の記事は、今でも注目に当たる。日韓両国民の国民性を的確に指摘しており、今後の指針となるからだ。

忍耐と説得を心がけながら

 双方のスタイルを私なりに要約してみると、韓国(釜山)は、仕事を迅速に処理し状況変化に巧みに対応するなど、判断が果敢で速い。効率性を重視し、最善の成果を目標として、積極的で先導的である。また、仕事の中で自身の存在を確認しようとする性向が強い。

 日本(福岡)は、仕事を正確に処理するための準備が徹底しており、計画をめったに変更しない安定感がある。民主性を重視し、業務に対する責任感が強く小さな事にも慎重である。そして、職員個々人の能力を認め、意思を尊重する。

 双方は、このような性向を認め合わなくてはならない。理解できない時は仕事が難しくなり、個人的にもきつくなる場合が生じる。忍耐と説得が必要であり、主・客観的な判断が求められる場合も多い。」

 

過去30年以上、日韓間の各種交流事業に参与してきた経験からして、韓国側の「ケンチャナヨ主義」に戸惑ってきた私には、まさに張実圭氏の言は今後ともに肝に銘じておくべきだろう。

2023年5月7日日曜日

釜山府の名士 迫間房太郎










 

釜山府立病院 松浦秀明病院長

松浦秀明先生


私は西条中学 (愛媛県)二年の時、父が病気になり、約 一週間位で亡くなりました。病気は
熱黄疸。今考えるとウイルス病だったと思います。死ぬる数日前に自分で死を感じたのでしょ
うか、 「お前、中学を出て、何とか上の学校に行 って、出来れば立派な医者にな ってくれ」と
云ったと覚えております。
残りの中学三年間は西条の開業医の家に、今で云う家庭教師の様な型で先生の御宅に住み込 んで三年間を過ごし、卒業して鹿児島七高に入学、九大医学部に進みました。大正九年、卒業
と同時に九大医学部第 一内科教室に入局。昭和六年に釜山府立病院の院長で赴任し、終戦の年
の昭和二十年十 一月迄約十五年を過ごしました。




 

釜山 東本願寺









 

三島高等女学校



 

伊藤荘重商店



 

伊田糸店



 

英商店



 

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