2026年5月29日金曜日

釜山和館の遺蹟を求める旅

 釜山和館を求めて

(1)設門:草梁町571番地(中国料理店恰興園に向かって、左側):この設門から山側に向かって石壁が伸びていた。

(2)草梁客舎:別名、「大東館」。釜山公立普通学校が、その址。

黒田全権大使「使鮮日記」(1876年1月)
朝鮮帰好余録

 

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「公立小学校沿革

 

明治9年日韓修交條規の訂結せらるるや本邦人の家を挙げて説こうするもの漸次増加し教育の必要を感ずるに至り、明治10年初めて居留地事務所(当時は会議所と称す)の一室を割て教場に充て読書算術習字の教授を開始せり。之の実に釜山教育の萌芽なりとす、其後就て学ぶもの漸く多く忽ち教場の狭隘を告げ更に内大庁(対州侯の使者韓官吏と応接する所)の一棟を借りて教場とし次で、本願寺別院に移り漸次本邦教育上の法規に準拠し児童を教育せいも未だ小学校の体裁を為すに至らざりし、明治13年時の領事近藤真?氏の奨励尽力により官舎の払下げを得て校名を修済学校と称し同年7月に教授を開始せり。

明治21年校舎を西町1丁目(現在の商品陳列館敷地)に新築し11月修済学校及女児学校(明治18年本願寺別院設立)の両校を廃し組織を更めて府立小学校と改称し小学校令の教訓に基き修業年限を尋常高等各四カ年と定め校費の全部を居留地人民の負担となす。」(211~212頁)「明治38年、日韓昌文社」

 

 




(3)誠信堂:釜山公立普通学校から若干山側。瀛州町668番地

1,「攷事問答」
2,朝鮮帰好余録

(4)守門:本町2丁目3番地第1銀行支店(東光洞)

(5)裁判屋:本町3丁目18番地から19番地の中野商店と谷直商店

(6)東向寺:本町3丁目28番地(公立幼稚園下)がその跡。

(7)西館:西町(新昌洞)1丁目の釜山貯金管理所・東本願寺釜山別院(大覚寺)・福田醸造場。



(8)宴享門:大庁町3丁目14番地(大庁洞3街14番地)西村畳屋。

(9)宴享大庁:第1公立小学校(南一初等学校)。

 

 

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1)営繕峠:1909年まで、現在の釜山中部警察署及び中央洞一帯には海抜130尺に達する山、営繕山があった。その山を越える峠を、営繕峠と言った。
(2)この営繕山は、1909年から1912年にかけて、開発して、その前面にあった海上4万坪を埋め立てて、第1埠頭および旧釜山駅を建設した。

(3)この営繕山の別名は、「両山」あるいは「双岳」であった。この場所は、日朝外交事件における、犯罪者を処刑する処刑場であった。」(金義煥『釜山地方の地名の由来』91~92頁)

(4)訓導・別差の事務所が、現在の「蓬莱初等学校」にあった。(金義煥「李朝時代における釜山の倭館の起源と変遷」『日本文化史研究』第2号、1977年、8~9頁

(5)粛宗2年の記事

(6)粛宗3年1月5日の記事

(7)粛宗4年(1678)「自東至西二百七十二歩四尺、自南至北二百五十六歩(倭俗以六尺為一歩)」


(8)「旧代館倭五名、従倭二十五名・都禁倭三名等、先移新館、而其余館守倭等、卜物畢輸運後、移居作計、今已畢輸其物、当日移居新館、館守以下大小館倭四百五十四名、当日午時前、領付新館」『倭館移建謄録』


(9)『釜山口租界条約』「居留地の面積は、約書附図の如く、西南は、二百二十間余、西北は二百七十九間半余、東北は三百四十間六合五勺程、東南は四百十五間二合五勺程である」

(10)東本願寺(大谷派本願寺)釜山別院:今の釜山市中区昌善洞の大覚寺

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