2016年7月30日土曜日

かって、朝鮮語を流暢に話していたか?ーー対馬島民(江戸時代)

趙慶男の『乱中雑録』庚午(1600年)五月の条に、

[資料]「対馬島(対州)管二郡~~(中略)~~、其女子多着我国衣裳、而其男子幾解我国言語、称倭国必曰日本、称我が国必曰朝鮮、未嘗専以日本自居、在平時蒙利於我国者多、蒙利於日本者少」

とあり、対馬女性は朝鮮の言語を知らないが、朝鮮服を着用していたという。一方、対馬男性の「幾人」は朝鮮語を流暢に話していたという。そうした朝鮮語取得の方途として、

[資料]「対馬之倭鋭毒不足、而巧詐百出、於我国之事、又不周知、自平時択島中童子之怜悧者、以教我国言語、又教我国書契簡牘之低仰曲折、雖明眼者倉卒不可弁其為倭書」

  この記事によると、対馬島の中でも「怜悧な童子」に対して、朝鮮語を学習する機会が与えられていたとある。しかしこの文中の「教」がはたしていかなる意味に用いられたかは、はなはだ疑問とすべきであり、これがただちに「朝鮮語学校」を指し示すものではないことは留意しなくてはなるまい。それと符合する記事として、1682年(天和2年、康煕21年)に来日した訳官金指南が書いた『東槎日録』壬戌八月二十一日の条に、

[資料]「而貴国之語、即馬島之人、多能通暁、用是国無置講習之規歟」
         (『海行愡載』巻4、朝鮮古書刊行会、1914年、107頁)

の記事によって、「講習之規」はないとあり、学校などによる学習のチャンスは置かれていなかったが、対馬人たちは朝鮮語に「多く能く通暁す」とある。ただ、この金訳官を尋ねた対馬人通詞が、こう告白したという。

[資料]「其倭連日来候、候事質問、而不能為軽唇音、且有入聲、我国之呼者、如穀與骨質與職等音、頗有所弁、余嘗見崔世珍所撰四声通解韵蒙韵、皆不用終声、而唯南音之呼」(『海行愡載』巻4、朝鮮古書刊行会、1914年、108頁)

つまり日本人には、軽唇音と入聲の発音が困難である、と。同じ朝鮮通信使一行の一人の日記にも、福岡県藍島での風待ちの間の暇に任せて、

[資料]「両国言語之相通、全頼訳舌、而随行十人、達通彼語者甚鮮、誠        可駭然、此無他、倭学生涯、比益肅條、朝家勧懲、近亦疎虞故耳、首訳輩、以為倭語物名冊子、訳院亦有之、而以其次次翻謄之、故訛誤既多、且彼人方言、或有変改者、旧冊難以尽憑、珍此日対倭人時、俚正其訛誤、成出完書而習之、即方言物名」(『海行愡載』巻4、朝鮮古書刊行会、1914年、197-198頁)
 であったという。このときの通信使一行に同行した対馬藩朝鮮語通詞に関して、

[資料        天和二年壬戌八月廿一日
                 一 朝鮮国の三使節名は、尹趾完、李彦綱、朴慶俊といふ物          江戸に来朝す、光圀公是を聞給ひ、朴春常方へ仰被遣候は、朝鮮の三使江戸滞留の内、彼是御問被成度由、夫より案内給はるへきとの御事也、依之春常より宗対馬守義真の家来小山朝三と、内藤左京亮の家来大高清助と両人に、右の思召の段を達せられ候に付、光圀公御家来今井小四郎正興、中村新八顧言、并森指月此三人を被遣候処に、小山朝三亦対馬国の町人加勢五右衛門通辞として、右両人朝鮮の学士成碗と言者数度参会いたし、其他鄭牛俊、又は金指南、印剣覚、鄭文客なとと言者に対談いたし、禽獣草木地名器物国字等の事、其外被仰付候事共を相尋、折々の参会なり」(『通航一覧』巻110、国書刊行会、1913年、286頁)


と記録しており、「小山朝三亦対馬国の町人加勢五右衛門通辞」のような有能な通詞が朝鮮通信使来日時に活躍していたという。

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