京都府立総合資料館『朝鮮物語』を底本とする。
以下、記述の補注・校合については、諸本を以下の様に略記する。
日鮮史話掲載本→(鮮)、校合部分は[ ]で補記する。
島根県日原村水津氏所蔵『秘書朝鮮新話』写本→(新)、同右は{ }
李元植氏所蔵『松原昌軒 朝鮮談話』→(談)、同右は〔 〕
筆者による補注→( )で補記する。
諸本との校合は、内容的な部分について行い、言い回し・送り仮名等の異同については省略した。
※異体字の「より」は「ヨリ」に置き換える予定ながら、一部は直っておらず「・」になっている。原本を参照する必要あり。
※注釈も中途のまま。
参考・日鮮史話本『朝鮮物語* )』序文* )
対馬州に而、家来松原新右衛門と云者、数年大通詞役相勤、数ケ年朝鮮にも在番仕、彼国之様子委細存知巧者に候、対州之暇を取、享保八年に長門州萩え参候、予心安〔令談話〕致話談、朝鮮物語承之、追々記置候
但、右之通故、新右衛門、宝永・正徳両度之信使* )時分も大通詞役にて江戸え参候事
『朝鮮物語』(京都府立総合資料館所蔵)
松原新右衛門朝鮮物語
松原新右衛門ハ本朝鮮之大訳官ニて対馬国之家来也、朝鮮にも数年在番し、彼国之趣を物語す、間に其答滞事なし、正徳元年なり享保四年信使時分、其役として(江戸)東武江往来し其嶺を能知り、其後対州之暇を取、処士と成て萩に至れり、惟は治教休明にして不招といへ共、慕ひ国宝聚来する謂なり、私に其徳を考るに漂民之為而已ならす、余時応変て重宝たらん事、長防之地勢に叶たる儀今其計量をしらす、又本朝之書物を考るにも悉其証有り、殊に近年之新儀に至てハ古記ニ無具、其言を以知易く皆拠とするに足る故、是を草稿に記し童蒙之(便)使とする也
享保十三戊申正月日 江隣擴挌書之
朝鮮物語
(1)一、対馬国ナカ長サ(鮮・談・新では「広サ」)三十六丁壱里ニして* )三十八(鮮・談「三拾五」)里有り、横広キ所十里或ハ五、七里也(鮮・談・新「横ハ広キ所五里或ハ三里或ハ弐里或ハ一里也」)(鮮)・(新)・(談)
(2)一、赤間関ヨリ対馬へ之程、海上八十里余有、尤直程ニして之積也(鮮)(新)(談)
(3)一、対馬国さすな浦之関所ヨリ朝鮮釜山浦之船着迄、表方四十八里と云共甚近ク御座候、弐拾里計も御座候事
但佐須那浦ハ三月ヨリ八月迄之出津場ニシテ、鰐浦を以九月朔日ヨリ三月朔日迄之出津場に定る也、さすな浦之儀冬に相成候てハ船之乗[下]前悪敷に依てなり、鰐浦ヨリも朝鮮へ之程、さすな浦同前候事(鮮)・(新)・(談)
(4)一、釜山浦船着ヨリ日本館* )迄之間、日本之程ニして一里有、尤浜伝ひニて候事(鮮)・(新)・(談)
(5)一、日本館之広サ五百間ニ三百間程之屋敷ニて、其内小山なとも御座候、右之屋敷を一曲輪ニシテ東之方ニ門有之、是ハ常々出入之門也、北之方ニ門有之、是ハ日本人を饗応等仕時屋敷ヨリ北之門江出饗応場* )へ参なり、右に申北之門ヨリ饗応場江間壱町程有之事(鮮)・(新)、(談→ただし一部脱漏あり)
(6)一、饗応場も百間四方程之屋敷ニて、夫々家を段々立たる者なり(鮮)・(新)・(談)
(7)一、饗応場ヨリ日本道半里計往而、リツ祥所(他本は全て「拝所」)と云者有、拝所* )者是も屋敷有て門を二ツ入、左候而(雁木)がんぎを上り、其上に檀有、夫江朝鮮之敷物なと敷候而、朝鮮王を拝させ申所也、其拝所ヨリ五十間計上ニ楼閣有て額を打有之、其額に殿之字書て御座候、朝鮮王之殿と云事也、〔直ニ拝する事ニてハなく、右之額を打たる殿を拝し申候事〕(鮮)・(新)・(談→末尾の記述はこの本にしか見られない)
(8)一、毎年対馬守殿* )ヨリ八度宛之使者有之、是を八送使* )と云、左候而毎年八度宛順番ニして使者有之也、其外一切余時之使者ハ別格なり、朝鮮之吉凶・日本之吉凶ニ付候而之使者、又ハ漂民ニ付候而も使者段々有之候事、[常ニ使者絶る儀無之事](鮮)・(新)・(談)、いずれにも末尾の記述あり。
(9)一、八送使之度々幾度もリツ祥(他本は「拝」)所ニて朝鮮王を拝させ、尤饗応有之候 事(鮮)・(新)・(談)
(10)一、饗応之様子ハ釜山近辺之大名* )、朝鮮王ヨリ被申付五里六里之間ヨリ出相候而饗応仕候事(鮮)・(新)・(談)
(11)一、饗応之儀、飯をハ出シ不申候、タゞ只菓子酒肴計ニて段々饗応御座候事(鮮)・(新)・(談)
(12)一、毎年初之使者は双方之安否なとを問、或ハ書中なとも有之、饗応計御座候、且又二番目之使者ヨリ馳走に女楽有之候、女楽之人柄ハトクネキ東莱之ケイ傾国来て女楽を仕候、女楽之節者段々之囃子方也、カツキ楽器ハ十二弦琴・九弦琴・太鼓・鼓・笛・鉢等ニ而囃子申候事(鮮)・(新)・(談)
(13)一、使者数之事
正月ニ第一〔番〕船
シヤウ正官壱人、フ副官壱人、都船主壱人、フウシン封進壱人、ニナモリ荷押主壱人、シハウ侍棒弐人も有壱人も有、大概第一之船ニハ弐人付候也、〔{ハンジン伴人六人}〕
右正月ニ往、六月ニ帰也、朝鮮ヨリ之馳走ハ六十日之間也、其間何れも用意不入候事
第二船
第三船
第四船
右使者数、以上八度ニて、本ハ八船迄有之候得共、其後五船ヨリ八船迄ハ略に成、一船ヨリ四船迄ニて相済候、尤八船使分之段々饗応有之候、五船ヨリ以後ハ使者為参心ニて饗応有之候、二船三船四船之使者も六十日宛罷居申候事
且又イテイ以酊庵使
正官壱人、封進壱人、伴人弐人、侍棒壱人
右以酊庵使之儀、軽き使者ニ付第二船に付候而往申候、昔ハ以酊庵主直ニ被参候所ニ、其以後対馬殿ヨリ使者仕立被申候、以酊庵使と名乗参申候事(新)・(談)
(14)一、五船ヨリ八船迄之使者へ馳走之儀ハ饗応分之下行有之候て、本式之饗応ハ無御座候事(新)・(談)
(15)一、釜山之浜際ニ城有、秀吉公朝鮮陣時分被築せ候日本城ニて、一方ハ沼、一方ハ田、一方ハ海ニテ御座候、但城番之儀ハ交代ニテ三年に一度宛都ヨリ被参入代ニて御座候事、〔(談)では(31)の文がここにあり〕(鮮)・(新)・(談)
(16)一、右釜山之城之上手ニ亦城有、是をも日本城ニて今ハ明き城ニ而御座候、城内ニ古キ墓とも多ク相見へ候、朝鮮陣時分ニ死たる者之墓と相見(他本は「聞」)候事(鮮)・(新)・(談)
(17)一、対馬ヨリ参候為究使者之饗応ハ釜山城番ヨリ之饗応ニ而御座候、余時之使者ハ近年(新・談は「近辺之」)領主エ時々被申付候而饗応有之候事(新)・(談)
(18)一、八シ使之度々対馬守殿ヨリ朝鮮ニ而礼曹参議・参半[〔之官江書状被差越候、礼曹参議・参判ハ〕]其外国ヨリ之取次仕役ニ而御座候事(鮮)・(新)・(談)
(19)一、対馬守殿へ旧格ニ而朝鮮米壱万六千俵、五斗三升俵ニして買得也、其アタイ價、用物替に被仕候、此方ヨリ遣し被申候物、先ハ水牛角、是ハ阿蘭陀船ヨリ長崎ニて買得被仕、銅・(丁字)ちうじやく・(塗炭)とたん・スゞ錫・(明礬)めうはん、又日本ニ而多候塗物焼物なとをも遣し被下候、胡椒・(蘇芳)すほう* 十)此二色なともイ夷国ヨリ相求遣シ被申候、尤分量究而左之物共ニ而米代之払方相澄候事(鮮)・(新)・(談)
(20)一、今之朝鮮王ハ李瓊と申候、六十歳余ニ而子数多ニ候、其内男子ハ壱人御座候事(新)・(談)
(21)一、五年以前隠居之願を北京江被申出候所ニ赦免無之候、朝鮮王上代ヨリ隠居之例無之故、其通ニて候、常々眼病難儀被仕由候事(新)・(談)
(22)一、朝鮮ヨリ北京へハ一年ニ二度宛使者差越被申候、朝鮮王直に被参儀ニ無御座候事(新)・(談)
(23)一、朝鮮国年号之儀、古格之通本唐之年号を請用ひ申候、只今則本唐之康熈号を請居候事(鮮)・(新)・(談)
(24)一、対馬江一年ニ買込之人参千斤也、あたひ之儀、壱斤ニ付凡新銀壱貫め程ニ当り候、尤其内用物替ニ日本物・唐物且又阿蘭陀水牛角類迄を取集色々遣ひ被申候、然共壱斤ニ付新銀[五百目位は朝鮮の方へ参り申候、已上千斤にては新銀]五百貫め程ハ毎年朝鮮とられ候て日本へ取帰候儀ハ不相成候事(鮮)・(新)・(談)
(25)一、朝鮮日本館へ対馬ヨリ入込候而居候人数、常住凡五百人程宛ニ而御座候(鮮)・(新)・(談)
(26)一、日本館ヨリ日本道一里半計先キニ石碑★如此なるを立置候而、是ヨリ先へ不参様ニと書付切置候、依之日本人夫ヨリ先へ参候儀不相成候、尤石碑之銘ニモ日本人不参様ニと有之候事(鮮)・(新)・(談)
(27)一、人参之儀釜山あたり之山にも有之、尤人家ニモ植付候て有之候、山に御座候も又人家ニ植付候も一統ニ用ひ候得共、兎角山に有之自然生するのが能御座候由之事(鮮)・(新)・(談)
(28)一、釜山浦之船着当りヨリ石碑有之所迄之間、其外近辺皆百姓之家ニて候事(鮮)・(新)・(談)
(29)一、阿蘭陀船ハ朝鮮へ参不申候事(新)・(談)
(30)一、砂糖ハ朝鮮ニ無御座候事(鮮)・(新)・(談)
(31)一、釜山之城番ハ武官ニて釜山を守り候、尤兵船も三艘付居候、殊之外大船ニ而御座候事(新)・(談→ただし、(15)の末尾にあり)
(32)一、対馬守殿ハ根之知行高少々ニ而、大概朝鮮之方交易之利潤を以物成ニシテ被居候、此十年程跡ニテ対馬守殿之利潤、元禄銀ニ而三千貫目余も只一年之内に有之候所ニ、近年ハ中々少シク相成、大形今ハ千貫め計茂可有御座歟、近年ハ朝鮮物高直相成候、朝鮮ニモ唐ヨリ色々之物買込候而朝鮮物に交せ朝鮮物と申候而日本江も相渡様成参懸り候、唐之本が殊外高直相成候、夫故段々高直ニ参り懸り何か六ケ敷利潤只様減り候而、対馬守殿勝手本ヨリハ悪敷相成候事(新)・(談)
(33)一、朝鮮殊之外寒国なり、釜山浦当りハ東南海ニて候処ニ其海之塩氷申候、日本ニ而ハ海ナト之氷り候儀無之候、釜山浦当りニて海辺ハ皆氷り候、都ハ北故猶更寒ク御座候事(鮮)・(新)・(談)
(34)一、日本館ヨリ都迄之道程十二日之程也、都ヨリ本唐之境迄十五日之程ニて候事(鮮)・(新)・(談)
(35)一、朝鮮国ハ南北ニ長ク東西ハ短キ国ニて候事(新)・(談)
(36)一、人参之儀、自然生之人参ハ中々稀之様相見候事(新)・(談)
(37)一、朝鮮之咄、一里と追々申候儀、日本程太概三十六町、依之積りを以申候、一里が三町少シ余ニて朝鮮之千里が日本之百里と積候か能御座候事(新・談→いずれも「一里が三町少シ・・・」以下の文を欠く)
(38)一、朝鮮ヨリ本唐エ使者参候儀相究候而ハ、冬至之嘉儀被申候使者、且又暦を請取差越候使者、以上両度ニ相究り候、其外余時之使者ハ格別之由候事(新)・(談)
(39)一、本唐ヨリ使者朝鮮エ参り候儀、昔ハ稀ニ候所ニ、近年ハ節々ニて一年之内一度又ハ一年ニ二度も有之由候、尤唐ヨリ之使者をハ朝鮮ニ而勅使と唱申候、勅使参り候得ハ朝鮮之痛多、端々ニ至迄も難儀仕之儀、釜山之者共申候事(鮮)・(新)・(談)
(40)一、昔者鉄砲無之候所ニ近年ハ大筒・小筒共ニ日本之通自由有之候、秀吉公朝鮮陣ニハ其頃朝鮮ニ鉄砲無之由ニ候、其以後日本之通ニ不相替鉄砲出来候事(新)・(談)
(41)一、只今ニ而ハ朝鮮、陸戦・船戦共ニ毎年稽古仕、殊外兵を練り候と相見候、釜山当り之様子も船戦等修行仕躰候事(新)・(談)
(42)一、虎を取候儀色々ニシテ取候、鉄砲ニても打申候、虎之形チハ何之子細も無之猫之形ニて、殊外きひしく相見候、長サ一間半計ニ相成候事(新)・(談→途中抜けあり)
(43)一、対馬ヨリ朝鮮へ之間、前ニ申候通弐拾里計、或ハ十八里計も可有御座と相考候、対馬之湊口ヨリ朝鮮を見候得ハ中々委敷相見へ候、煙り之立候も或ハ山〔抔〕松焼候も相見候事(談)
(44)一、対馬ニ居候雉子ハ朝鮮之雉子と壱ツニて候、日本地一統之雉子とハ格別ニて候、朝鮮も対馬も一様ニ生、[殊外]見事ニ細ク御座候、尤味も能候事(鮮)・(新)・(談)
(45)一、朝鮮之者咄申候、朝鮮ニても一切之儀昔と違ひ今ハ驕り申候、多葉粉なとも昔ハ何そニ火を入、きせる又石なとを添差出申候、其後日本ヨリ釜山之きせると而金張之きせる渡シ申候、只今ハ多葉粉盆持ぬ者ハ無之由申候、則日本同前候事(鮮)・(新)・(談)
(46)一、対馬守殿知行之儀、対馬之国一万石、田代一万石、柳川千石、以上二万千石ニて候、乍然家来之配ハ現米五万石程有之候、(ことご)秀と是ハ朝鮮之交易其利潤ニて家来配当も其通ニ被仰付候、只今ハ朝鮮交易利潤前々と違少分ニ相成候故、対馬守殿勝手茂差詰候故不自由候事(新→中程が脱漏)・(談→石高を誤記)
(47)一、正徳之信使時分、対馬守殿へ従公方様三万両之拝借被仰付候、享保之信使時分も其通拝借被仰付候、正徳之拝借ハ三年経調ニ相成候、夫を返済以後又享保信使之時分ニ三万両之拝借被仰付候事(新)・(談)→いずれも「享保」を「宝永」と誤記
※(新)・(談)この位置に次の記載あり。内容的には京都本の(214)に類似。
一、朝鮮国之広サハ日本之九州ニ四国を添候程可有之候由ニ申候へとも、夫よりは広ク可有之と被存候事
(48)一、釜山之日本館あたり江迄、テコ古子(談は「木梗」)* 十)遣ひ又ハかぶきなと之類軽業仕等之者皆々参り、秋ニ至り所務有之候時分者例年在々勧進ニありき申候、則日本之通候、尤古子遣ひ等之者ハ日本之分ニ歌浄瑠理ことき之儀語申候事(新)・(談)
(49)一、日本館廻り都而釜山近辺へユキキ行帰(新・談は「行脚」)之僧一切廻国仕者共数多相見へ候儀、日本之通ニて候事(新)・(談)
(50)一、トクネキ東莱ニも城有之、都ヨリ城番代り々々参申候、東莱之城番ハ文〔官〕館ニて候、城ハ是も日本城之よし候事(新→途中が脱漏)・(談)
(51)一、朝鮮ヨリ対馬守殿へ壱年間に使者参申候、当年参候へハ又来々年参候、対馬守殿江戸より下着候と早速朝鮮江知之使者を差越被申候、是を告還使* 十)と申候、対馬守殿ヨリ〔口上を、御無事ニ候哉承度候、此方ニも国元江罷帰候、東武〕相替儀無之と被申達候、又夫を請取候而朝鮮ヨリ使者参り申候、朝鮮ヨリも口上に、御無事ニ御帰り珍重存候、東武御静謐之段目出度存由抔之口上相当之儀ニて、使者ハ上々官二頭参候、上下ニて以上百人之人数船壱艘に乗申候、兎角九十日計逗留ニて罷帰り候、其間対馬守殿ヨリ段々馳走ニて罷帰候事(新)・(談)
(52)一、公方様と朝鮮王と之御書通ニ、日本ヨリ者正徳何年享保何年と年号御書せ候へ共、朝鮮之方ヨリハ年号無之候、唯エトヒヨミ計を書申候、昔ヨリ今に至迄朝鮮国ニ年号を得立不申、唐之年号を請申候、今も清朝之年号を請申候、唐之年号を書候も気之毒に存、又朝鮮ニハ年号無之故、可仕様無之年号無しに書札相調申候事(新)・(談)
(53)一、朝鮮ヨリ唐江暦を請候使者を以申達、其使者暦を請取候而罷帰り候、唐暦之仕立者殊外大キニ御座候、都而日本之通替儀無之、色々書付候而有之、かまぬりニよし、種まきによし、何初によし抔と有之儀、則日本之通御座候事(新)・(談)
(54)一、右之唐暦を対馬守殿ヨリ朝鮮へ被致〔探索〕短束、弐ツ宛公方様へ毎年差上被申候事(新)・(談)
(55)一、朝鮮ニて虎之儀、釜山あたりニも爰かしこに居候而悪サ仕候、第一人をも喰、牛馬抔者猶更喰、其外をも喰申候、海川をもおよき渡り牛馬江仕懸申候、朝鮮ニて之申伝に、虎之儀人を独喰候得者耳之切壱つ有之候、弐人くらひ候へハ弐ツ切レ、三人くらひ候へハ切レ三ツ有之候、喰候人之数程兎角耳之切目有之候由候事(鮮)・(新)・(談)
(56)一、虎か木に上り候時ハ惣身之毛殊外に〔逆立〕さたち声音サワゝゝ申之由ニ候、〔風を〕生する抔と申俗説ニ候事(新)・(談)
(57)一、日本館屋敷之内抔ニも不図替たる足跡有之儀御座候、定而虎〔之足跡〕ニて可有之と皆被申候事(新)・(談)
※(談)にのみ、この位置に次の記載あり。内容的には京都本の(216)に類似。
一、日本館ニ参り居候者も諸用通達之儀、朝鮮之方と申合せ市を立用物を求候事
(58)一、日本館屋[敷]之内ニ日本之寺一ケ寺有之候付、東向寺と申候、其寺へ対馬之出家弐人参候而居申候、日本人果候得ハ葬祭仕候事(鮮)・(新)・(談)
(59)一、朝鮮釜山あたりへ出家を見候ニ皆沓を拵、筆共仕、其外色々之細工物仕、夫を代替ニて渡世仕と見へ申候事(鮮)・(新)・(談)
(60)一、日本館抔之取繕造作等有之候節、日本館近辺之出家ハ何れも公役ニ罷出日用所ニ相勤(談は「日雇等相勤」)夫々得たる業等仕候、日本之出家とハ中々違ひ相見へ候事(鮮)・(新)・(談)
(61)一、朝鮮国金銀殊外少ク不如意ニ有之候、尤金山銀山共大分有之由候得共、日本之通山中エ深ク不掘込、只寄口計を掘て取候故金銀一円出不申候事、且又銭も少ク候所ニ近年ハ鋳出シ候而太概多ク相成候事(新)・(談)
(62)一、是ハ唐之儀ニて候得共伝承候、本唐ニて只今康熈帝之儀〔ハ〕女直国〔王〕之弟ニて候、根本まづ女直国王之娘美人成を康熈帝之父聞付娶り被申候、左候而段々男子をも誕生ニて候、{今此}康熈帝モ則其子ニて候、其後{右之美人}康熈之母疱瘡を煩〔容貌〕面体悪敷被相成候、夫ヨリ康熈帝之父寵愛薄ク相成、夫を又后も憤り〔惣領〕宗領之子を連て女直国へ被帰候、今女直国之王ハ右之被連帰候男子〔直〕残り居被申候故、康熈帝之為ニ兄ニて候、女直国王ヨリ清朝康熈之方を幕下之様ニ兎角仕成し被申度と種々論有之常ニ不絶其通候、近年ハ唐ヨリ女直国へ毎年金子何斤と〔送物〕有之、其外種々之物如何程〔ニて茂〕と候而被送、唐ヨリも機嫌を取被申候、常住六ケ敷論議有之由候事(新)・(談)
(63)一、近年朝鮮ニ風説有之候、本唐康熈帝之男子数多有之、其内壱人朝鮮国王ニ可仕と存念有(ママ)有之由専申候、左候時ハ朝鮮王ハ牢人ニ成被申候、いかゝ可相成哉と下辺之取沙汰共御座候、朝鮮ニても色々心遣仕、又ハ日本隣(ママ)隣好[ニ可参とか]之参懸り旁種々ニ申成シ左様無之様ニ為仕由、朝鮮人之取沙汰承候事(鮮)・(新)・(談)
(64)一、日本館へ近〔年ハ〕辺之朝鮮人数多参候而常々色々之咄等申相候、其内此方ヨリ雑談ニ、朝鮮人ヅハツ頭髪本唐江不構往古之如ク立候而居候儀ハ日本之影ニて候、日本と之参懸りを唐江色々申立其通ニ居候なとゝ此方ヨリ申候得共、朝鮮人之答ニ、日本ニ構不申とても髪ハ此通なとゝ申候へ共、実ハ日本ヨリ申通ニて御座候事(新)・(談)
(65)一、朝鮮之信使参候節、上々官とて六人参り申候、上々官ハ皆通詞仕候、江戸御城なとニて者上々官之通詞ニて候事(新)・(談)
(66)一、朝鮮人江琉球人と出相候乎と尋候所ニ、朝鮮人之申方、琉球人之儀朝鮮へ者参不申候、一切出相被申儀無之候、朝鮮人本唐へ参候得ハ朝鮮人之旅館と琉球人之旅館と並居候、其節出相有之由申候事(新)・(談)
(67)一、朝鮮之医者〔を〕モ数人見候ニ、何れも本道針外科共ニ兼而相勤候、トヒ都鄙共ニ其通之由ニ候、朝鮮ニ而日本人病気之時者対州ヨリ参居候医者療治仕候、又朝鮮之医者を呼候而も参候事(鮮)・(新)・(談)
(68)一、長州其外近国又ハ九州之内何れと候ても朝鮮之漁船等漂着之時者、其所ヨリ〔長崎江被送、対馬殿屋敷請取申候、[政]改所ヨリ之タツネ尋相澄候上、御指図之上対馬江送届、対馬ヨリ釜山之方へ送届〔申候、朝鮮江帰り候而則〕相澄候、朝鮮へ返シ候得ハ朝鮮ヨリも役人出、段々様子相尋委細之究有之と相聞候、左有而そこゝゝ本之所へ差返申由ニ候、其時送参候対馬殿家来へも殊[外]挨拶能馳走等仕候事(鮮)・(新)・(談)
(69)一、日本館有之候釜山あたり大形田畑之地ニて、耕作之仕様日本同前ニ相替儀無之候事(鮮)・(新)・(談)
(70)一、牛馬之遣方日本相替儀無之事(鮮)・(新)・(談)
(71)一、田畑之植物米ハ不及申、麦蕎其外何茂日本ニて植候類ハ皆植候事(鮮)・(新)・(談)
(72)一、酒ハ日本ヨリも薄ク甘ミモ少ク不相勝候事(鮮→不相勝なし)・(新)・(談)
(73)一、味噌ハ無之候、味噌〔ニ似たる〕つきたる物有之候、夫ニて物を煮給候事(新)・(談)
(74)一、権現様御治世ニ被為成、朝鮮江度々御使被遣隣好之儀交易等之儀被仰越候得共、初者中々合点不仕、日本ヨリ参候使者毎度殺シ抔仕迄ニて居申候、其後且々合点ニて朝鮮ヨリ申候者、秀吉公朝鮮陣時分ニ擒ニ相たる朝鮮人大分日本ニ居申候、夫を御返シ被下候様ニ、左候ハゝ〔隣好仕り交易とも仕度存候と申候、然者其通可被成との事ニて、只今之分ニ相成〕隣好交易之儀御座候、右之節日本江連帰候擒之朝鮮人共大形被差返たる由候事(新)・(談)
(75)一、朝鮮人之咄承候、朝鮮陣時分朝鮮之人大分死失候、其以後今ニ至り候而も朝鮮国之人数中々少ク候、未往古之人数ニハ逢不申由候事(新)・(談のみ「朝鮮人之咄承候」が無い)
(76)一、朝鮮王国中を巡狩等〔被仕候儀〕被仰渡無御座と見へ申候、巡[〔国〕]使ハ[〔節々〕]廻り候と聞候事(鮮)・(新→後半脱漏)・(談)
(77)一、長門あたりへ漂着之朝鮮人申候、海上一日一夜程ニてハ着船仕由候事(新→前半脱漏)・(談)は(68)と(69)の間にあり
(78)一、朝鮮国中官人を初下辺迄之者皆不残衣服を着仕候計ニて、何れも無刀ニて罷居候、〔たとへ武官・軍官之身柄ハ表方相勤候時計〕尤武官軍官之身柄ハ表方何そ時計釼を負ひ、其外何ニても武具を帯し〔不申〕申候、是以平生ハ無刀ニて罷居候、勿論上下人々不残少キかつふりを腰ニ下ケ候而罷居申候、朝鮮国風俗何れも一統ニて候事(新)・(談)
(79)一、朝鮮国銭之〔銘〕名ハ常平通宝と有之候、古ヨリ今ニ其通と相見候付、外之銘ハ見不申候事(鮮)・(新)・(談)
(80)一、朝鮮ニてくつろと申候ハ、座敷を[すえ]座候所(談は「南座之処を」)土ニて塗、其上ニ何ニても相応之敷物仕候、焼火之煙を床之下江やりめくらし候様ニ色々石組抔ニて道をこしらへ、煙をやり候而夫ニてぬくもり満チ候様ニ仕候、別而老人是を用ひ申候、老人ハ大概四季共ニ其座敷ニ罷居申候、対馬抔ニも専ハヤリ時花申候、且又朝鮮人之申方ニ、此くつろ出来候而以来朝鮮人之寿命短〔ク〕シ相成候由申候、然時ハ毒ニて可有之候得共、差当り寒をシノキ凌候段日本之こたつ之心ニて、老人ニ殊外能キとて何れも用ひ候事(鮮)・(新)・(談)
(81)一、前に申置候八送使と云ハ第一船ヨリ四船迄之使者ニて以上四度、并以テイ酊庵使・万松院使・一特送使・副特送使、是ニて八送使也(新)・(談)
(82)一、朝鮮ヨリ対馬江一年間ニ参候使者、且又何そ吉事凶事付参候使者、何れも訳官使と唱候事(新)・(談)
(83)一、日本館之儀、秀吉公朝鮮陣以前者、釜山浦・ウル蔚山・ユウテン熊川(談は「コモカイ」と傍注)以上三ケ所ニ日本館有て、入〔込〕篭之日本人〔数多〕数千罷居、朝鮮日本之両国互ニ心安申相、売買等之儀ハ不及申儀ニ候、然所朝鮮陣起申候、朝鮮陣之少シ前ヨリ右三ツ之日本館居候日本人追々何となく皆日本へ罷帰り候、朝鮮ニて後考候へハ朝鮮陣之催シ存候故鼠路々々日本江罷帰候儀と朝鮮ニて各申たる由ニ候、段々旧記ニ相見申候事
但朝鮮陣以後ハ只今之通釜山浦壱ケ所計ニ日本館御座候事(鮮)・(新)・(談)
(84)一、朝鮮ヨリ対馬守殿へ〔[銅ニて]〕伺候而拵候朱印差越置候、朝鮮へ対馬ヨリ被差越候八送使其外一切差越候船毎ニ此朱印を突申候て持候、日本之賊船等を別而キライ嫌イ申候、右之朱印無之船者日本ヨリ差越たる〔船〕ニて無御座候、朱印持参候分之船ハ不残対馬ヨリ差越船之証拠候、朝鮮と対馬と其段申合せ右之印判を[〔日本へ請取置、右之通日本船に印判を〕]持せ候事、但日本ヨリハ印判不遣置候事(鮮)・(新→記事半ば略される)・(談)
(85)一、朝鮮ニて諸臣下之儀類族二ツニ分レ、一方を南方と云イ一方を西方と申候、日本ニて源氏・平氏と分レたる趣ニて候、只今国政之柄を執り候ハ南方ヨリ出而相勤候、又西方ヨリ出而柄を執り候事も有之候、其段ハ南西〔ニ限り〕時ニ依候事(鮮)・(新)・(談)
(86)一、官名之儀三〔公〕光ハ、領議政日本ノ太政大臣・左議政日本ノ左大臣・右議政日本之右大臣如是候、都而諸官名大概唐似候事(新)・(談)
(87)一、米之直段、白米五斗三升俵ニ付、昔安キ時者銀五匁位仕候、只今者大形十匁位仕候、先年寅ノ歳飢饉之節五拾目も仕候、其時分ハ大分之死人ニて候事(新)・(談)
(88)一、人参直段之儀、凡壱斤ニ付新銀壱貫目位ニ当り候段ハ前ニも申候、其内人参〔之段〕段々上中下ニて直段上中下有之候得共、壱貫目と申候者上中下有之候へ共壱貫目と申候ハ上中下を均※し候而之積候事
但、壱斤ハ四拾両也、壱両ハ四匁也(新)・(談)
(89)一、朝鮮人へ尋承候所ニ、鴨緑江ヨリ北京之順天府迄道程五十日路と申候事(新)・(談)
※(談)のみは、ここに以下の記述あり
右之趣、松原新右衛門と申者、十三歳より対馬殿家来ニて、朝鮮江参滞留仕、殊ニ彼者通詞能心得候故、長州萩江被召抱候、夫故朝鮮之物語追々承候処、具ニ書記置候者也
追加朝鮮人於江府公方様御見参其外聞書
(90)一、三使江戸ニて致登城御目見之儀ハ、御簾之外次之間ヨリ拝仕候、厳有院様御代迄之格ハ御簾を高く巻上候而拝被仰付候、然処常憲院様之御代初三使登城有り拝之時、不図間違候而御簾を御身柄半分も不見程ヒキク卑巻上ケ候処、三使申方格式違申候〔間〕、拝仕かたくとて拝を不仕、何とも不相済場之シラケ候儀ニ相成、対馬守殿其時ニ三使段々懸相有之、〔其通り〕壱通ケ様公方ヨリ被仰出たる儀絶而不相替日本之例ニて候、拝不仕候得ハ則チ対馬守三使トサシチカエル外無之候抔と種々申相之上、漸納得ニて拝を致申候、若君様之御簾も同く如右卑ク巻候、是ハ幾寄も拝相成不申候、未位ニも付給ニて無之一円不相成と申切候、因茲其時被仰出、公方様右之通ニて拝仕候間若君様へ之儀者被成御了簡〔前々之通〕其通ニて拝可被仰付候と相成拝仕候、其時天和之格式を以御当世初り享保之三使迄ニ至りいつれも御簾を少シ上ケ拝を被仰付候ハ右之格式ニて候、若君様之格ハ〔前々之如く〕御簾を高ク巻上候事(新)・(談)→両者とも「享保」を「正徳」と誤記する。
(91)一、大坂ニて三使江上使を被成候ハ大坂御城代ニて候、宿者門跡ニて候、常憲院様御初天和迄之格ハ、座敷へ上使〔と〕を三使と一同ニ出相ニて候、文照院様御代初正徳之三使之時分、三使大坂江着之砌、江戸ヨリ被仰越候、此度ハ上使門跡之堂江御上り之時、階〔之本江〕被下候三使ムカイ迎ニ被出、又上使御帰之時茂其所江送て被出候得〔との〕共、御下知ニて、三使江色々申聞せ候得共承引不仕候、左様思召候ハゝ先達而朝鮮江可被仰越儀ニ候、左候ハゝ朝鮮王江伺候而日本江可参候、只今俄之被仰懸ニてハ自分抔之仕形兎角不相成申切、江戸ヨリハ兎角迎ひ送被仰付之如クニと被仰下、其間之懸相、三使大坂に〔日数〕{数日}三十日余滞留候得共不埒ニて候、詰之所承引無之何れも此所ニ差置カ、又追立ると成共仕候と申候、正使之師匠学士ニ東郭と申〔者〕て有之候、夫抔を以も色々申させ、いつれも此分ニてハ惣中も難儀之事候抔と種々申達、惣中も〔遂出仕〕{退屈仕}退席仕候而三使へ其通被仕相澄候而可然と相願候〔故〕旁ニ、三使も込り漸納得ニて階之上際迄迎送仕候、然共御当代初享保信使之節者迎送仕候ニ不及、天和之例之如く座敷へ上使と左り右ノ方江一同出相之格ニ相成本へ戻り申候事(新)・(談)→両者とも一貫して「正徳」を「宝永」に、「享保」を「正徳」に誤記する。
(92)一、且又正徳之信使江戸ニて御返翰御渡之時、御状日本〔封〕符ニ仕候を請取間敷と申イナヤ否仕候、御文書之内にも朝鮮王先代之諱字等有之、是をも請取間敷と申而否仕候、ケ様之儀ニ付殊外もつれ不埒ニ相成候、俄に朝鮮へ三役ヨリ飛脚を以申越、朝鮮ヨリ参候国書之文言ニも直り候所有之、漸相澄候、日本ヨリハ右之御状を押付而被遣候事(新)・(談)→両本とも「正徳」を「宝永」とする誤記踏襲。
(93)一、且又正徳文章院様御代者、御返翰日本国王と調被仰付候、是も御当代享保にハ替り、日本国源吉宗と天和之例之通調被仰付昔江戻り候事(新)・(談)→誤記の踏襲同前
(94)一、且又御代々之格式、江戸御城へ三使罷出候節ハ、御能拝見被仰付候処ニ、文章院様御代正徳ニ者音楽被仰付候、是も御当代者本之格式へ戻り御能を拝見被仰付候事(新)・(談)→誤記の踏襲同前
※(新)(談)には、この位置に次の記載あり。内容的には京都本の(221)に類似。
一、文章院様御代(ママ)宝永ニ参候三使者、朝鮮へ帰り候而上々官抔茂皆流罪ニ相申候、大坂ニて迎送り仕不調法、且亦格式之悪敷御返翰を請取帰候不調法、両条之咎メニて流サレたるよしニ候事
(95)一、釜山浦日本館ニて之儀ニ者無之候[〔外ニ]]様ニ、対馬ヨリ参候使者申請、馳走等有之候堂之額、[〔遠柔堂〕]遠第等堂と有之候、〔是ハ〕[〔遠く来る〕]遠来寺をやすんする之心也、額を打有之候事(鮮)・(新)・(談)
(96)一、信使江戸往来之節そこゝゝ御馳走之次第、いつれかいか様と有之儀、対馬守殿ヨリ江戸へ被申上格ニて候、正徳信使時分ハ〔安芸国〕備前蒲苅御馳走之次第壱番と注進御座候、享保之信使時分ハ長門下ノ関之御馳走之次第壱番と注進有之候事(鮮)・(新)・(談)いずれも宝永・正徳の信使と誤記。ちなみに日鮮史話の松田甲は、宝永の信使を寛永の信使と取り違えて注釈を施している。
(97)一、朝鮮諺文と申ハ、朝鮮中古ニ吏文大師と申僧之作りたる字ニ て、朝鮮計ニ有之字ニて、日本之いろは之如し、其字皆朝鮮常之言之声を付たる物候、口ニ一下り有之ハ下江付ケ字ニて候、是を以常之通用書状も相澄申候、常之〔言音〕言之声を付たる物故、何ニも書レ申候、此字出来候而以来ハ通用自由ニ相成候故、其以前ヨリ者学文之心懸薄ク相成候と朝鮮人も申候事(新)・(談)
且又諺文之儀、別巻委細記置分ニ候事(別巻無し)→この但書は他本に見えず
(98)一、朝鮮リ吏文と申ハ、是も則吏文太師作り申候、是ハ漢字ニて夫ニ〔てには〕てねは之字書加たる物ニて候、是ニて朝鮮之上ヨリ書付候而下へ遣物、下ヨリ書付候而上へ出す等之物を相調也、常之書札抔ニ者遣〔ひ〕シ不申候、吏文を作り候故吏文大師と申ニて候事(新)・(談)
且又吏文之儀、別巻委細記置分ニ候事(同前)→他本同前
(99)一、享保十年・十八年か十九年か前之儀ニて候、竹島之儀ニ付朝 鮮と日本と大成出入有之候、其趣者竹島之儀伯耆国之仲ニ有之地・ハ二伯も三伯も間有之有島也、伯耆之国・年々猟船往而色々猟仕候、伯州ニ付たる島之心得ニて居候、朝鮮・も年々猟船参り色々之猟仕候、朝鮮之島と心得居申由ニ候、然共朝鮮人日本人一同ニハ終ニ不参相故か、夫・以前者何之詮議も無之候所ニ、或時伯州之猟船竹島へ船を付ケ早晩船付ケ候と早速大筒を打離し候而船・上り候故、其時も其通船・上候と大筒を打候得ハ、又島之内・も大筒を合候而打申候、此趣者此竹島を朝鮮ニ者鬱陵島と云而本・朝鮮之内と申候、因茲朝鮮之猟師其外ニも参候、何者か我国之鬱陵島へ参り猟を仕候、参候ハゝ咎メ可申と手組ニ而態仕構居候、折柄右之通日本人・鉄砲打候故合せ申候、左候而右之者共出相日本之島と朝鮮之島と之論埒明不申、伯州・江戸へ訴有之、不参様ニと之儀一円承引不仕、段々懸相有之江戸へも追々注進仕候、兎角ケ様ニてハ不相澄候、対馬・朝鮮へ申参候所ニ漸半合点之様ニ相成、朝鮮・之申方書通ニ、我国之鬱陵島へ一切人不参様ニと申付候、我国之鬱陵島へさへ人不遣儀ニ候ヘハ、况日本之竹島へ可参様無之候、左様御心得候へと之儀ニ候、対馬・是ハ不申参直ニ又被申達候ハ、是ハ壱島と一名ニ為仕申方、此分ニてハ不相成と申達候所ニ其後返答不仕候、其段江戸へ御注進仕候処、此上ハ竹島を朝鮮へ可被遣と之儀ニて其通相澄申候、是ハ対馬ニ吟味過候故結局仕損シ候と跡ニてハ申候、其後ハ左様ニ御沙汰相成日本人往事なし、朝鮮・ハ春毎ニ数人参猟を仕申候、尤常ニ番人抔も遣置朝鮮之外之人一切入レ不申候事
(100)一、清朝順治皇帝本唐を征伐被仕候時者、江戸・対馬へ被仰付朝 鮮へ被差越候、自然朝鮮へも順治之軍勢仕掛参候ハゝ、日本・加勢可被遣之御事ニて、朝鮮・之返答早戦も相澄寄、尤朝鮮へも軍を仕懸不被申候、不及御加勢と之儀候、将軍家光公御代也、右之様も対馬ニ御座候事
(101)一、九州五島之向ニ島有、朝鮮之島ニて其名を済州と云、此島人 大概日本詞を遣ひ日本之歌抔をも諷、常々其通ニて候、此島人始者日本人参初メ候て其筋ニて候、段々人数茂出来今之通之由候、朝鮮・支配相成朝鮮国之内ニて候事
(102)一、東莱江日本館・三里有之候、釜山浦日本館之諸沙汰仕候、役 人も東莱ニ居申候、無拠用事等有之節者日本館ニ居候、対馬之 役人東莱へ参朝鮮之役人へ令相対罷帰候事
(103)一、朝鮮ニて子共あるき仕候時、親其外之者ニても恐らかし候を 承候、倭奴来と申候、日本人参候となり、彼国・日本を恐候参 懸右之通候事
(104)一、釜山浦之城主者武官ニて候、釜山僉使と唱、東莱之城主ハ文 官ニて候、東来府使と唱候、対州・朝鮮へ使者参候度々東莱府 使・釜山僉使いつれも出相ニて候、兎角其通ニて候、対馬之使 者と者対座之格ニて相対有之候事
(105)一、対馬・之家老衆使者トして参候時ハ、朝鮮都・挨拶人をも壱人釜山浦へ差出シ被申候、罷出候人柄之位日本へ三使抔ニ参候同前程之格相之身柄ニて候、[是を接慰官と唱候]是も接慰官と対馬之家老衆と之座配対座ニて候事
(106)一、朝鮮之漂流人なとを対馬・送参候時者、釜[山]近辺之城主 替々挨拶に釜山浦へいて申候、是をも接慰官と唱候事
(107)一、萩・朝鮮へ之方角を考るに、西北之真隅之通りが慶尚道之内 ▲張と申所へ当り可申と存候事
(108)一、朝鮮ニてハ目金細工不得仕候、遠目金ニても平生之目金ニて も細工不相成候、夫故日本・も求候事
(109)一、朝鮮ニて日本之挽茶都而日本之茶を殊外賞翫仕候、日本と違朝鮮ハ肉食を強仕候、肉食之以後日本之茶を用候得ハ胸を押上候而殊外能キと申由候、朝鮮王・対馬守殿へ所望ニても被送、又対馬守殿・起りても被送、因茲日本之茶朝鮮に不絶有之候、夫故朝鮮王常々呑茶者日本宇治之茶を用被申候事
(110)一、朝鮮之書物『輿地照覧』と申書之内ニ相見候、朝鮮国之儀、 日本と和合仕候ハね者不宜候、兎角以来末々ニ至而も日本と和合仕候てが国之為能有之候、左様仕候へと記置候、是を以考候ニも日本と和合絶候時ハ朝鮮之為ニ悪敷儀多有之故ニテ可有御座と存候事
一、朝鮮ニハ水牛無之候、殊之外水牛をほしがり候、水牛ニ而半 弓をこしらへ申候、日本・も大分渡候、水牛参候ハねハ半弓何 共不相成と而ほしがり候事
一、朝鮮ニ長キ弓、日本之様成者無御座候事
一、対馬守殿江江戸・被仰付、朝鮮人参千斤宛ハ兎角毎年買得相成儀候、然処ニ三宝四宝之時代、両様之銀子を対馬・朝鮮へ遣ひ懸見候得共、三宝四宝共ニ中々いやがり取不申、人参之買入不相成段江戸江相伺候所ニ、新規ニ銀子御鋳させ被成対馬江被差出、人参買得をも被仰付候、此銀子特鋳銀と御名付ケ被成、対馬江も被差出、人参買得如本無別条相成候、其特鋳銀を考候ニ、今之新銀共・ハ能相見江候、此段差而世上ニ不存儀ニ候、三宝四宝時代右之特鋳銀を以朝鮮へ之銀子払仕候、其以後ニ相成候而祐、只今之新銀をハ被仰付候事
一、朝鮮釜山浦・朝鮮之京都迄之道程十二三日路有之、亦京都・ 朝鮮之往詰唐之境迄ハ十四五日路も有之由申候、両条合而見候 へば釜山浦・唐境迄廿七八日路之長サと見へ候事
一、人参之儀、朝鮮之内ニても白頭山ニ有之人参を以第一と仕候 事
一、対馬之国ニハ人参こさい不申候、対馬守殿朝鮮・人参を大分取寄被植見候得共一円そだち不申候、且又対馬之山ニ有之候人参一通り御座候、是ハ尾人参ニて候、対馬ニも尾人参ハ大分御座候事
一、本之人参も尾人参も根之違候計ニてあとハ少も替候儀無御座、 花も何も一ツ儀ニ而候事
一、人参之花之儀、先ハ白キ花ニて間ニハ色違之花有之由ニハ申 候得共、白花之人参計を見申候、色之違候花をハ終ニ見不申候 事
一、朝鮮人武芸之儀、馬ニ乗候儀ハ兎角日本・上手ニて候、勿論 馬上ニて種々之業仕、弓を射鑓を遣候儀中々上手ニて候、且又 其外之武芸ハ日本之方が上手ニて候事
一、朝鮮人剱を負候を度々見候ニ、一円剱ニて無御座、日本之刀 ニて候、仕立も則日本之仕立ニて候、夫を背負候、ぬき候時者 右肩之上・ぬき申候、最左之手ニてつき上ケ右之手ニてぬき申 候事
一、鑓を持せありき候を見候ニ、鞘ハ一円無之皆ぬき身ニて候、 都而鞘と申儀ハ無御座候事
一、先年長崎之町人伊藤小左衛門、日本之武具を大分朝鮮江内証ニて渡シ候、夫・朝鮮ニ日本之武具大分有之由、最秀吉公朝鮮御軍之節捨り居候武具も有之、其外色々之訳ニて彼方ニ残り候、因茲日本之武具を用来り朝鮮之武具・ハ兎角日本武具之理方能キとて日本之武具之通りニ追々朝鮮ニて何もこしらへ申候事
一、甲冑并刃物之分、太刀ニても鑓抔之類ニても何も日本之通ニ こしらへ申候事
一、秀吉公朝鮮御軍之時分迄ハ朝鮮ニ鉄砲と申儀無之候、朝鮮ニ て書申候『徴非録』ニも鉄砲之儀を鉄砲とハ一円申も無御座候、 丸ニ当而死すると有之候事
一、日本ニて申候竹島之儀ハ朝鮮ニて申候通鬱陵島と云ひ、兎角朝鮮之内と被存候、朝鮮之記録ニも上代ニ此島を取り朝鮮之領内ニ仕候と有之候、日本ニて竹島を見出シ候者差而遠キ年数ニて無御座候事
一、釜山浦之町ハ宿ニて御座候、町之長サ壱里程御座候事
一、朝鮮ニて町之屋作り之儀、日本之町之如クせぎて作り候様ニ 無之、悠々とせき不申様ニ作り候而有之候、夫故火事抔と候而 も大概一軒焼ニて相済類焼無之候事
一、朝鮮ニて座敷之儀、都而畳ハ無御座候、先ハ板敷ニて客有之 節ハ莚抔を出シ候而敷キあいしらい申候事
一、朝鮮之役人歴々ありき候をも見申候、人数をも大分召連候、鑓ハ鞘無シニて何れもぬき身ニて候、鞘と申儀無之候、兎角籏を持せ候、尤昇之籏ニて候、其籏色々ニて白キ籏[も有之、錦の籏も有之候、錦の旗は大旗]ニて三四枚敷も有之候、行列之節ハ籏持候者籏持なから馬ニ乗参候事
一、日本館之儀、古と今ハ違申候、古ハ別之地ニ有之、今之日本 館・一里計ノ間有之候、此古キ日本館之地を只今釜山浦之内古 館と唱申候事
一、只今之日本館之地をハ草梁と申所ニて、古館・一里程間有之候、日本館之地易り候次第ハ、先年筑前之町人伊藤小左衛門、対馬之町人数拾人申談、朝鮮之朝廷江も申合役人談而、日本之武具を大分渡候而、其後相知候已後、何れも御仕置被仰付候、其後之御沙汰ニ、日本館之有所悪敷故如右儀も出来候、所柄可被替と之御事ニて、朝鮮へ日本・被仰返、日本館之地替り候へ、熊川ニ仕候様ニ被仰返候へ共、朝鮮之方ニ左様ハ不仕、漸只今之日本館ニ相成候ハ、唯四十年計跡之儀ニて候事
一、対馬守殿書物之内『経国大典』と申が有之候、是ハ朝鮮書物 ニて朝鮮之当世一切治メ方之記録書物ニて候、殊外能書物ニて 候所ニ得写取不申候事
一、韃靼馬之儀、日本之馬・ハ高サ倍有之候、惣躰之大サも倍程 有之候、韃靼馬朝鮮江も参、朝鮮人数多乗ありき候事
一、韃靼馬者皆きん之玉を抜申候、玉を抜候得ハ発気無之馬之も たへ久敷有之故と也、朝鮮馬ニも間ニハきん玉を抜たるが有之 候事
一、朝鮮朝廷ニて女中江入交り候役人之儀、何れもきん玉を抜申候、是も発気不仕様ニと之儀也、本唐ニハ閇切之人を用ひ候得共、朝鮮人ニハきん玉を抜申候、此違有之候、朝廷之外ニもきん玉を抜たる人を女中へ交り候役人ニ用ひ、閇切仕たる人ハ兎角発気有之候へとも、きん玉を抜たる人ハ絶而発気無之物ニ候、私儀もきん玉類抜様習覚候而人ニても馬ニ而もぬき候事
一、人参之出所
江原道之内
江陵・厚州・襄陽・三陟・准陽・春川・鐡原
咸鏡道之内
咸興府・安辺・甲山(此所ニ者名鷹も有之)・三水・白頭山
京畿道之内
開城府(是を古都と云)
右朝鮮ニ而人参之出候名所如此也
一、秀吉公朝鮮御陣之時分ニ被成御攻候都か開城府也、其後今之 都ニ替り申候、前之都開城府を只今古都と申候、日本之今京と 南都有之如ク候事
一、朝鮮王常に日本之酒を能とて給被申候、日本と而も京都買東 屋か酒気に応シ、追々対馬へ申来、日本京都・取越候而給被申 候事
一、朝鮮当時之王をハ李瓊と申候、李瓊之元祖をハ吾太子と申而限有之名人ニて御座候由也、此吾太子・以前ハ高麗・新羅・百済を一ツニして持居候、其後吾太子被出新羅・百済・高麗皆一ツニして被治、夫・今ニ続申候、前之高麗王と吾太子之世ニ相成候との間、殊外大軍数年之間有之たる由ニ候事
一、右ニ申ス吾太子之背ニハ龍之鱗有之、今以其子孫ニ者鱗一ツ 宛有之と申候事
一、朝鮮ニて王をハ外にして、諸臣二ツニ分レ南方・西方と而格別之立派ニ而御座候、南方・治を仕時者三公其外夫ニ次たる高官者皆南方ニ相勤、西方・者其以下之官相勤候、且又西方・治を仕時も右之格ニ仕、南方ハ皆其外之官相勤申候、南西之入交りニ者殊之外惣動仕由ニ候、只今者南方之世ニ而御座候、十五六年より前ハ西方之治ニて候処ニ、十五六年跡ニ南政宗と申而中々能人柄出候而、西方治勤不宜段を訴候所ニ、王被有納得南方江可被任と之儀ニ付、南政宗を先として其外南方へ各三公其外能官ニ付、只今ニ至り十五六年以来ハ南之治ニ而候、西方ハ罪科之勤段々有之ニ付、上・も其とがめ有之、銘々海に身をはめ首をくゝりて死スル等之儀数多有之、左候而西方之惣中ハ南方ニ交り勤之形にて参申候、南・西江交り候時も其趣ニ而候、本以来幾度も南西之入交り其図ニ而改申候事
一、朝鮮諸臣装束之色、南方・治を仕時分者南之火色を取、赤装 束を上トシテ用申候、西方・治を仕時者西之白色を取、白装束を上と仕候事也、一切か様之格ニ而候、只今ハ南方之治方故赤色を賞翫と仕候事
一、自分儀、正徳之信使時分者副使付ニ而江戸江参り候、享保之 信使時分ハ正使ニ付而江戸江参申候事
一、日本江三使と候而被参候人柄之儀、疎之人躰ニ而者無御座候、 及第四ツ茂五ツも被仕たる抔成限有之徳之人柄ニ而候、無左候 へ者高位高官ニも上り不被申、日本江も差越不申候事
一、正徳之副使付之節も色々副使と咄相仕候、其内副使被咄候、 朝鮮ニ而近年之名詩有之、諸人是を賞翫仕候と而被申聞せ候、 其詩ニ曰
富貴若将智力求 仲尼年少合封侯
世人不識青天意 空使心神半夜愁
一、朝鮮ニ而禄を請る人皆及第を以禄を請申候、及第無しに禄を 請候人ハ一人も無之候、古・今以其通ニて候、尤郷々ニ而及第 有之、是を郷試と申候、田舎及第申候事
一、常之医者ハ不及申、馬医之類迄及第を以禄を請申候、尤馬医 も本之医者を本と仕馬医を習候ハねハ馬医計ニてハ及第ニ不相 成候事
一、朝鮮之咄ニ申候、先年及第有之時孟子之大意を云せ候時、壱人之申様、天理を存し人慾を止ムと申候、中々悦敷埒明ニて能申方と候而禄を請申候、其跡ニ存様ニ兎角埒明而短き申方が相候と而、存し止ると計申候所ニ、何とも短き候而者義理埒明不申と而禄をも不遣落第仕たる由、朝鮮人之咄承候事
一、自分儀馬医を朝鮮ニ而稽古仕候、師匠之儀、都・日本館之二 里脇ニ流され候而居申候、其子細者、馬医之及第有之候時、撰者ニ出候所ニ、賄賂を取り依怙仕、悪敷を能ニ仕、能を悪敷ニ仕候咎メニ依而、右之通流され居候、其人柄江馬医・本医共ニ稽古仕候事
一、諸国へ朝鮮之漂民着船仕、夫を長崎江御送、夫・対馬へ請取 申候、対馬・朝鮮へ被送候時ハ家中ニて逼迫をも仕、上・救被申候ハ而不相叶訳有之者、両人宛付ケ候而送被申候、朝鮮ニて色々之くれ物有之、夫を取帰り、尤其内ニて対馬守殿へ納候品も有之、左候而其跡ニてが壱人分銀六七貫目宛之勝手有之候事
一、朝鮮ニ而織物之儀、差而上品者無御座候、有候物者
木綿(ムシヨム と申候)
紬(チウ と申候)
三升(是ハ毛トロメン如キ之物ニ而候)
昭布
右之外糸織物之悪敷類ハ有之、外ニハ何も無之候、能物之分ハ 皆本唐・買求候事
一、対馬江唐船漂流候時ハ、前廉ハ唐船一艘ニ銀壱貫目宛取候、 左候而船を長崎へ送届候、近年ハ左様不仕御国抔一流沙汰被仕 様ニて候事
一、朝鮮ニて鶴・鳫・鴨共ニ日本・ハ殊之外味能候事
一、朝鮮ニ而都而細工ハ無調法ニ候事
一、朝鮮之漁船、余り遠クへ不出、太概十里位を切候而出候と相 見江候、日本江参候漁船ニ而考候ニも遠方江之出船ニてハ無御 座候事
一、むく狗日本・ハ沢山ニ居候、尤常之狗・ハ少ク候事
一、鯨之儀、朝鮮ニハ取不申候、鯨取候ハ日本と阿蘭陀計之由承 候事
一、大根、朝鮮ニ而ハ太概なまニて給申候事
一、朝鮮ニ而牛を殺候儀、中比法度ニ被仕候へとも、牛を給候へ ハ寒気を凌候便ニも相成、其通ニ難相成又殺し候而給候ニ相成 候事
一、羊ハ朝鮮ニ居不申候、唐・参候事
一、日本館江対馬・参居候者共、鷹狩或ハ鶴狩なとニ参候、数寄 候者ハ皆々日本館ニて鷹を持居候事
一、朝鮮之漁人申候者、長門国あたり江之海上ハ百五十里程可有 之と申候事
一、対馬ニ而朝鮮へ書通之儀、文作之儀ハ籍学之長老衆被仕候、対馬之出家十人計を籍学江仕置被申候、其十人之内ニ而頭取ハ色衣之僧ニ而候、残りハ大形たん寮位之出家ニ而候、此十人僧之儀書翰之筆者を仕候、且又書翰之儀ハ唐紙を三四枚合せ而用ひ候、此合せ紙之こしらへ手、対馬ニ而も只壱人有之候、殊之外六ケ敷物之由ニ候事
一、対馬之市中ハ町数廿四町有之候事
一、対馬之城有之候へとも、天守ハ無御座候事
一、対馬守殿三代前・城ニハ不被居、別ニ屋敷有之、夫ニ被居候、 城ハ湿気も強土地悪敷、右之屋敷ニ被居由ニ候事
一、竹島へハ伯耆国・も弐百里、朝鮮国・も弐百里と申候事
一、南京と北京之間五十日路程之間相有之由、朝鮮人申候事
一、北京ニ而朝鮮人居候所ハ玉花館と申候、朝鮮・北京江追々参 候使者絶る事なく何れも此玉花館ニ罷居候事
一、本唐・朝鮮江書物を渡シ候儀者法度ニて少も渡シ不申候、夫 ニ付朝鮮使来聘之節日本ニて書物を大分買候而罷帰候、唐之書 物を日本ニて板行仕候を珍しがり求候而罷帰候事
一、日本ニ而字ニ音と訓有之如クニ、朝鮮ニても音と訓有之候、 趣左ニ記之
テン チ タン イルホン
天 地 唐 日本 右ノ方音也、左ノ方訓也
ハノルスタグ カンナム エ ノ
右之通一切字毎分れ而如此也、日本と同前也、音訓之分るゝ子細者、其国之字ニて無之、他国之字を習而通用する故、其字ニ本・有之音を習たる物也、則漢字を朝鮮ニも日本ニも習覚候故音訓両様有之候、一切漢字を習覚而通用する之国ハ皆其通と相見江候事
一、本唐ハ音計ニて相済、別ニ訓と申物無之候、音が則本唐本・ 之詞ニて候、其後ニ字を作り字毎ニ其音を付合せたる儀ニ候へハ音訓分ルへき様なし、故ニ諸事之通用軽ク日本之学文・ハ手早相調候段歴然也、朝鮮或対馬抔ニ而承候ニ、本唐之外ニ何れか西之方ニ当りて壱ケ国音計ニて字ノ通用仕候国有之由ニ候事
一、日本ニ而唐松と申候松之儀、朝鮮ニても沢山ニ有之ニてハ一 円無御座候、惣躰之松ハ皆日本同様之松ニ而候、日本館・五里奥、蜜陽と申所ハ不残唐松ニて余之松ハ無御座由ニ候、其外之所々ニ而も間々ニ唐松ハ有之、跡ハ皆日本同様之松ニ而候事
一、享保十壱年・十八九年も以前之儀ニ而候、朝鮮・使者を対馬 江差越申候、尤此使者ハ対馬守殿江戸・被致下着、此方・朝鮮へ使者を差越被申、其後彼方・使者を差越候時之事也、其時朝鮮之使者船対馬・四五里沖ニ而損し朝鮮人上下大分并日本館ニ罷居候対馬之役人抔も相果候、其後朝鮮江対馬・聞せ遣シ相済候、尤彼船之節者人数壱人も不残相果申候、日本館近辺之百姓とも大分夫々之得物を持、或ハ竹抔をときらかし火ニ当て持、日本館へ仕懸ケ軍とも仕候様ニ日本人をいため、日本人も腹を立朝鮮人をいため大喧嘩仕候、是ハ破船ニ乗居候水主類抔之親子兄弟其外不逢間ともニて候、最前破損ニて朝鮮人相果候聞せハ偽りニて候、兎角日本人が殺し候而偽り申越候とて其通ニ仕懸ケ申候、朝鮮人日本人ともに大分疵づき申候、色々申而も静り兼候、釜山浦之役人方江申遣候所ニ、役人抔かけ馬ニて参押候へハ漸静り相済申候、其時自分なとも日本館之番仕居候内之儀ニて候事
一、朝鮮人之書候物ニ日本人を書誤り一分人と云候而有之候、音 声似たるを以如此書たる物ニて候事
一、朝鮮国八道ニて惣石高四百万石余御座候、尤高四百万石余と 唱申候事
一、朝鮮国絵図ニ八道共ニ巡察使と有之ハ、毎道其下知をなす所也、且又牧使・府使・府尹・郡主・県監・令県抔と有之ハ皆其所々之司也、各命を巡察使ニ請申候事
一、朝鮮国八道共ニ只今開作地大分有之、如何程開立可申も自由 候、其子細ハ秀吉公御軍時分ニ切尽され候以後、土地ニ合せてハ人足り不申、一円往古之人程無御座故、自然と開作地ニ相成地大分御座候事
一、朝鮮ニて葬之儀皆儒葬ニて候、仏法ニて之葬ハ無御座候、且 又儒法ニて葬候後、釜山辺其外在々ニてハ専有之候よりを立、夫江死人乗りうつり色々之事共申候、趣日本ニ有之形ニ相易儀無御座候事
一、浦々ニて猟之祭を仕候儀、日本ニ相替儀無御座、ねぎ之装束 を仕、笹之葉ニ幣之様ニ白紙抔付候而振り舞候を、釜山あたり ニて見申候、か様之儀ハ節々有之見候事
一、前ニ記置候、朝鮮ニて治メ方ニ南方・西方と申而両流有之て 入交り候次第之起り、左ニ記通ニ候
一、朝鮮国、新羅・百済・高麗と三ツニ分レ居、其後高麗・新羅百済を取一ツニ仕候て今之朝鮮一統ニ相成候、其一統ニ被仕候高麗王之時分、仏法を崇教して釈典と申物を初メ南西之分チ出来、徒党を結ひ其角を仕初メし・今之南西之儀初り候事
一、一年ニ者弐度も三度も其上も日本船朝鮮江漂着仕候、左候時 ハ日本之如クニ馳走仕類共をも遣シ、段々と送り対馬江送り申候事
且又十四五年跡迄ハ、何国之船漂流仕候とも、対馬・大坂へ送り上せ候而、大坂役人之御尋ニて相済夫・そこゝゝ江被差返候事
且又右之通対馬へ朝鮮・送り来候船を大坂迄上せ彼地ニて御尋相済候ハ、殊外無益成儀ニて段々其御沙汰有之候上、近年ハ御法改り候て大坂・下之船ハ長崎へ対馬・送り、大坂・上之船ハ大坂へ対馬・送り、御尋有之相済候てそこゝゝ江被差返相済候、十四五年以来之御法如是ニ御座候事
一、日本船朝鮮へ流され参候儀、前ニ申候通年中ニ者節々ニて御 座候、其内天下之御米船節々流され参申候、乗前を能存いか様 成作廻仕候も程難計と存候事
一、享保十二年霜月、川尻浦へ参候朝鮮之漁人申候ハ、去々年之前年朝鮮王死去ニて、新敷王立被申候と之儀ニ候、此段を新右衛門考見るに合点不参候、朝鮮王之嫡子ハ当年慥四十歳程之筈ニ候、孫譲共ニ而候哉、又ハ二男譲共ニて候哉、又ハ漁人聞損シ而申候哉と存候、朝鮮王之嫡子年長ケ候故、朝鮮王久々隠居之願被申候へとも朝鮮王隠居之例無之付赦免無之候、病身ニて被居候故、嫡子早数年政務を聞沙汰被仕候、表方ハ嫡子ニ而内輪ハ即位同前ニて候、四拾歳程之積りニて候、合点不参と之事
一、朝鮮ニて県令と申と県監と申ハ位違ひ候、県令ハ県監・卑ク 有之候、何れも日本之代官之如クニ候事
一、極楽之儀を世王と申候事
一、下例之者とも迄喪をハ行ひ候、下列之喪ハ笠を白キ紙ニ而張りかづき申候、笠かづき候儀ハ朝鮮之礼ニて候、夫を右之通ニ仕候、又ハ荒布之帯をも仕候、両条を以下列之者之喪服と仕候、上分ニ至り候而ハ喪服を着用仕候事
一、道々之惣司を観察使と申候、因茲殿様抔之御位をハ朝鮮之漁 人等之唱候ハ観察使と申が能御座候事
一、朝鮮之銭ハ皆大銭ニて候、小銭と申儀ハ無御座候事
但銀壱匁之所へ十銭遣ひ、或ハ段々ニ違ひ廿銭迄も遣ひ申 候、所々其時々々之相場ニ依り違ひ候事
一、慶尚道常々之米之直壱匁ニ五六升、又者七升も仕候、豊年抔 之節者究而此通仕候事
一、正月之儀朝鮮と日本ハ究而其月違ひ申候、自然ニハ一同ニ相 候儀有之候へとも大形違ひ候、朝鮮ニハ本唐之暦を用ひ申候、 夫故本唐と朝鮮ハ暦同前ニ而候事
一、下列之者迄も皆氏を申候、少々左ニ記候
鄭 朴 金 洪
一、朝鮮ニ者訳官五品有之候、本唐・日本・韃靼・蒙古・野人国、以上五ケ国へ対シ夫々訳官罷居候、五ケ国之持方、本唐へハ随ひ居候、日本も隣国船交大切之立申候、韃靼・蒙古・野人之三国ハ只交易共計仕候由、誠之交り者無御座候と相聞へ候、対交易訳官を立置候事
一、釜山あたりニて節々火事をも見申候、差而火消抔と見へ候人 も無御座候、只寄集り消し候、家之儀天井ハ大形土ニてぬり申 候、屋祢ハ瓦もかやも御座候事
一、『経国大典』と申書物、朝鮮国ニ有ル記録ニて、対馬ニも対馬守殿計被致所持候、其外ニハ一円無御座候、紙数三四十枚程有本十冊程有之候、朝鮮ニ而色々之儀を書記諸事朝鮮国治メ方之仕法を書たる書物ニ而候、日本へ之常々挨拶仕向ケハか様仕たるが能御座候、唐との参懸りいか様ニて候抔と申様成儀共も有之候、中々面白キ記録ニて候事
一、対馬之大通詞ハ朝鮮之上々官と同シ位ニ対馬・ハ仕向ケ被仕、 諸事勝手向等ニ至迄仕成シ能有之候、両国出相之時ハ上々官と 大通詞等輩之参懸りニ而諸事仕候事
一、対馬ニて大通詞七人御座候内、私儀者暇を取候而彼地を罷出、残り六人居候所ニ又其内四人相果只今両人罷居候、朝鮮在番・長崎在番、対馬ニも壱人居候ハねハ不相成、両人ニてハ頃日何とも不相成段申来候、小通詞者数多居候得共大通詞之程ニ不相成故、其場之勤之段不自由ニ候、因茲頃日ハ大通詞ことかぎ之段追々申来候、是ハ享保十三年ニ其咄を新右衛門仕候事
一、惣而対馬家中之儀ハ、家老衆・下ニ至迄、朝鮮之方之交易色 々有之故、何れも勝手能御座候、対馬ニて五百石之分限が御国 之千石程之居方ニて候、皆其通候事
一、対馬之儒者役雨森藤五郎・松浦儀右衛門抔も分限三百石ニ而 御座候事
一、各朝鮮在番仕候とても、朝鮮一切之書物又ハ絵賀等之儀ハ取 帰候儀御制禁ニ而相成不申候事
一、対馬国と朝鮮国と見渡旁之図、如此御座候
但対馬国者今三拾六丁一里ニして、南北三拾八里余、東西広キ所ハ拾里或ハ五七里 但古ハ四十丁壱里なれ共、今ハ三十六丁一里ニして之積也
釜山浦・佐須奈迄四十八里トハ古ヨリ申候得共、弐拾里程有之 候事
府中ヨリ佐須奈マテ三拾里余、船路ハ五拾里余有之候事
図左ニ記之
(図1をここに挿入)
一、対馬守殿ハ中々勝手能候而上方共ニ而も西国之長者抔と申唱る参懸りニ候、朝鮮之方ニて買物、夫を被売候而之利閏毎年二万貫目ニも及候躰内福成儀ニ候、朝鮮使日本江参候時之造作と候而も、惣之御大名之三双倍も入可申候得共、度々之信使時分ニも差而痛ミ不被申候事
一、対州者只壱万石之高ニ而候得共、其当りニ而ハ無御座候、内 検段々有之候、壱岐之風本ニ蔵屋敷有之、筑前之内ニも其通有 之、京・大坂ニも有之候、惣躰之参懸小身之形ニてハ無御座候 事
一、惣而防長御両国之劃と対州御領内之劃と考見候ニ、対州も防 長御両国之三歩二之形も可有之か、凡二十万石之劃ニて相見江 候事
一、対馬之城下ハ南と東を請たる海辺ニ而候、中々能所ニて候、売買之便りも宜敷所柄ニ而、京・大坂之町人数拾人売買ニ参り五百貫目千貫目宛も銀子を持来候而、朝鮮・対馬江被買候物を又買候而上方へ取帰候、夫故対馬守殿内福ニ御座候事
一、『懲瑟録』二冊目拾枚之左ニ有之由候事
時 久 不 雨 江 水 目 縮 曽 分 遣 宰 臣
祈 雨 檀 君 箕 子 東 明 王 廟 猶 不 雨
右之文を以新右衛門へ問申候、新右衛門申候ハ、檀君ハ朝鮮ニて人之始り、箕子ハ周之代ニ被封候箕子也、東明王とハ今之李氏之王之元祖ニ而、明朝之洪武年中に立被申候、其元祖之王ニて名をハ吾太子と申候事
一、長州萩と朝鮮と之あわひ、左之図之如くに御座候事
(図2をここに挿入)
右之通ニ御座候、萩と朝鮮国之蔚山と向ひ合せニて候、夫故萩と朝鮮ハ殊外近ク海もせまとニて御座候事
一、野人国とハ則韃靼国を差而申候事
一、珎島ハ本之儀朝鮮之島ニて候、竹島も近年朝鮮之内之島ニ相究り候、尤参懸り之儀ハ委細前ニ記置候、昔竹島を見出候者伯州磯竹弥左衛門と申者ニて御座候、此弥左衛門儀、士か町人百姓等かをハ不存候、弥左衛門見出伯州之公儀江訴候処ニ弥左衛門ニ所務仕候様ニと被仰付数年其通ニ候処ニ、竹島ニ付日本と朝鮮之論出来仕候、前ニ書置候通、終ニ者朝鮮之鬱陵島と申ニ相究候事
一、済州之儀を朝鮮人が申候、往古此島ニ自然と男三人計居申候、 然所ニ日本・船ニて女三人并牛馬物之種抔持参候、夫・此島を致開基今之済州ニて御座候、左有て船を乗参候人ハ雲に乗り虚空江上りいつれとも智レ不申候、名誉成儀ニ候、夫故日本・之開基無疑候得共、今朝鮮国之内之島ニて候、此島日本之いろは字を遣ひ日本之はやり歌抔をもうたひ申候、広キも対州程ハ可有御座、結句夫・ハ広ク可有御座と申候事
一、朝鮮を北江往詰而聖人国と之境ニ壱里之渡り有之候、其名を 豆満江と申候、是を朝鮮口ニハ、トマンガン、ト唱申候、西・ 東江流るゝ川ニて候、是を渡りて野人国江ハ参候事
一、享保十六年之春、朝鮮船漂着候を長崎へ御送らせ被成候、其朝鮮人咄候とて松原氏申候品、朝鮮を北へ行詰豆満江とて壱里之渡り有之、是を渡りて野人国へ参候、此豆満江朝鮮国と野人国との境ニて御座候、西・東へ流るゝ川也、朝鮮国と唐との境ニ鴨緑江有こときに候、此渡り川十月・三月迄殊外氷り申候、船之渡りやミて水之上を馬ニて往来仕候事
常々江原道之雪大分ふり候所ニて、壱丈余もつミ申候、咸鏡道之者弐人江原道之者八人已上十人ニて候事
各儀韃靼人とハ常ニ交り申候、韃靼人ハ法度易りたる儀候、頭をハまハりをそり中ニ髪を残シ、夫をくミて両方江たれて居候が、母死れハ右之方をそりのけ、父死れハ左之方をそりのけ申候、父母共ニ死れハ両方共ニ皆そりて坊主之形ニ相成候事
朝鮮ニも去々年・去年迄殊之外麻疹はやり申候、日本同前ニて御座候事
一、朝鮮国広サ之儀、太閤秀吉公朝鮮陣・以前ハ、九州に四国を 添へ候程可有之と皆推量申候所ニ、右朝鮮人時分得と相知れ候て一円右之広サニて無之、凡者日本半国・ハ大キニ有之と見江候由之事
一、釜山浦日本館之前ニ絶影島と申島有て廻り七里程御座候、是 ハ牧之島ニて馬大分居申候、此島之馬ハ能馬ニて追々朝鮮之都へ送り王之御召馬ニ相成候事
且又右絶影島へ虎往て馬をくひ殺シ候、尤くひ候を人見るニてハ無之候へともくひ殺シ置たるを見て虎之くい置たりと人も知趣也、因茲釜山浦之領主・虎狩を為仕られ、壱年ニハ壱度も弐度も虎此島江往而右之通故、虎狩も壱年ニハ一度も二度も有之候事
且又右之虎狩を仕とても、虎を殺候儀ハ凡成兼申候、此島を追のけ候計也、虎此島をにけ候時藻くすを集め頭にいたゝき藻くすの流るゝ様ニして海を渡り欠申候事
一、日本館関門之前ニて毎朝市立申候、是ハ本日本館日本人之用 達之為・起たる市也、近辺之朝鮮人も買取用達仕候、専魚菜を 売申候、或ハ木綿類ニても其外も売買仕候事
一、日本館あたりにも虎ふせぎ有之候、虎ふせぎハ山之頭頂ニ高き石垣二間程も築上たる物ニ而、爰彼ニ有之候、朝鮮国中皆其通ニ有之候、只分朝鮮人之申候も中々前ニ費成儀を仕候、今此虎ふせぎを虎が飛越申候、昔ハ恐れたるニ而も可有之候得共只今中々恐れ不申候、前ニ大分之人力を費シ於只今も無詮事と諸人評論仕候事
且又虎も弓鉄砲鑓之類或剣之類を持帯し候者をハ恐れ申之由ニ候事
一、対馬ニてハ牛馬共ニ外・一円参不申候、家来内ニ下地持候衆 ニ牧を持候衆四五人も有之候、夫ニ馬大分居申候、何れも上馬 ニ相成申候、対馬守殿之牧も所々ニ大分有之候事
一、三使江戸ニて登城之時、駕篭すハり所之儀、御式台蹴はなし・三間置て駕篭すハり候ており被申候、其例格也、右之通殊之外能格ニて御座候、且又対州ニて城江三使被出候時も、江戸御城ニて之同格ニて式台蹴はなし・三間置而駕篭すハりおり被申候、対州之城ニて式台前ハ江戸御城御式台前ニ少も易度無之様ニ形をこしらへたる物候、是ハ三使を引請申時之格式之為ニ其通ニ御座候事
一、文章院様御代初正徳之信使之時、大坂ニて信使之旅館へ御城 代を上使トして被遣候時、階下迎送之儀もめ申候、其段ハ前々ニも申通候、迎送之儀を信使承引無之時此方・申方ニ、前ニ無之例とても兎角其通ニ仕候得、日本・も前ニ無之例三使下乗之所迄館伴使を被差出儀ニも候、幾・も迎送仕候得と之御事候、館伴使とハ出向ひて同道仕内へ入る役人也、右正徳時分之館伴使ニ被仰付候ハ兵庫之御領主と覚申候、信使之被申方ハ館伴使等本無之儀ニ候、不被差出候ても能候、迎送之儀者難仕と達而申はられ候得共、終ニ者迎送被仕ニ相成候事
且又御当代享保之信使時分ハ古格之通館伴使をも不被差出候事
一、常憲院様御代初天和ニ被参候三使ハ、御簾之例格違ひたるを 以、朝鮮江三使被帰候と即時流罪ニて御座候、左候而三使何れも配所ニて死被申候、此時上々官茂不残流罪ニて候が、是ハ三年程して宥免有り配所・帰被申候事
且又文章院様御代初正徳ニ被参候三使、古例ニ無之大坂之旅館ニて上使被遣候時、階下迎送り被仕例格違、且又格式悪敷御返翰を請取たるを以、朝鮮江三使被帰と即時流罪ニ而候、是も三使何れも配所ニて死被申候、此時上々官茂不残流罪ニて候が、是も三年程して宥免有配所・帰被申候事
一、有章院様御代初ニも朝鮮と之乞合しらへ段々有之、信使追付 被差越筈ニ而御座候之所、無間相有章院様薨御被成付而信使も 参不申、御当代之初メ享保之信使と申ニ相移候事
一、御当代之初メ享保信使参候前年之儀候、朝鮮・節目講定使(ナラヒ サタムル ツカイ)と云而使を差越候、対州迄参申候、天和之信使時分・正徳之信使時分も礼式之儀付もめ兎角違脚之儀令出来、終ニハ三使・上々官迄も致迷惑、例格相違仕段ケ様ニてハ不相澄事候、本年ハ信使を茂進上申儀候、夫・内ニ諸事之礼儀格式を堅メ置而其上を以信使を進る覚悟之由申越候、其段を対馬守殿・江戸江被申上、一切之格式其時堅り候而、其辻を以朝鮮江対馬守殿・返答有之候、右之通前年ニ事を相堅メ候而翌年信使差越被申候故、享保之信使時分ニハ諸格式ニもめ候儀一円無御座、日本ニも朝鮮ニも宜敷儀ニて候事
一、三使之儀三品ニて日本江被参候が、使者役首尾能相勤被帰候 而ハ本位上ケられ二品ニ相成被申候事
一、朝鮮ニても木に只多キ物ハ松木ニて御座候、何れ之山も多は へ出有之候、日本ニてから松と申て有之候木、中々多ハ無御座 候、所々間ニ有之候得共多ハ無御座候事
一、三使朝鮮・被参候時、彼方ニ記録官段々御座候、諸格式ニ殊 外念を入申候、中々かきとめ仕記録ニて少之儀も何や角やと申 候、勿論日本へ参候而帰候迄之儀以外委細書記罷帰申候事
一、釜山浦あたりニてまな鶴之直、拾匁弐拾壱弐匁或軽時ハ十匁・内ニも売り申候、黒鶴ハ弐匁五分或三匁位ニて御座候、鴨ハ二分弐分五厘三分なとゝ申位ニ御座候、右之類釜山浦辺ニ大分居申候事
一、朝鮮ニて銀子を遣ひ候儀、灰吹銀を切而遣ひ、又ハ日本・参 込候銀子をも其侭ニて遣ひ申候、就夫灰吹銀ニてハいか程、日本銀ニてハいか程と申て売買仕候事
且又灰吹銀をハ天銀と唱へ申候、天・自然とふりたる銀子と申心ニて御座候事
一、人参之儀、朝鮮ニても西北ニ当りたる土地ニ出来たるか能御 座候、釜山浦あたりハ朝鮮ニて東ニ当りたる土地故か、出来た る人参も能無御座候事
一、日本へ御買入之人参を日本館へ朝鮮之売人共か持来候、柳こりへ大分宛入て売ニ参申候、其内ニ人参之能も悪敷も入交て参候をゑり分て能キを買上仕候事
一、北参と申候ハ、韃靼之方へ寄而之土地ニ出来たるを北参と申 候、是ハ悪敷御座候、惣而朝鮮ニても悪敷人参之分、朝鮮之外ニても悪敷人参之分、右何れも菜気弱ク候故、かんぞう水へ入置菜気をつよめ申候事
一、生人参と申ハ、人参を洗ひて其上白水へ付置たる汁ニて、夫 を則かげなしニ仕たる物也、此生人参者菜気殊外ニ強過申故、病人によりてさゝハり申候、因茲人参をうむして用ひ申候、是が常世上ニ有之人参ニて熟参と申候事
一、常憲院様御代、文照院様御代、差当御当代、右御三代共ニ御 用として人参を箱植ニして朝鮮・江戸へ御取越被成、左候而御浜御殿へ植付被仰付候間、定而御浜御殿ニハ只今沢山ニひろこり候而可有御座被存候事
一、東莱者沙汰所ニて候得共、日本館ニ在番仕候者ニても常ニ東 莱へ参候儀相成不申候、其内常憲院様御代之儀ニて御座候、私日本館在番仕候比ニ、竹島之儀ニ付朝鮮と日本申結ひ段々有之、江戸・只様ニ御裁許被仰下、対馬守殿家老多田与左衛門と申人為使者日本館迄参、夫・東莱江被参候、其時私儀も付候て東莱へ参初て見申候、其時与左衛門大備ニて御座候、持鑓ハ二本道具ニて御座候、先備ニ長柄之鑓弐十本ニて御座候、鉄砲拾挺張弓五張ニて御座候、中々能備ニて御座候、右之時分私儀通詞之為ニ参候而御用相達申候事
一、日本ハ殊外結構成能国とて朝鮮人も申定ニ、唐・ハ結構成儀 と申候、朝鮮・唐へ使者ニ参候衆が則日本江使者ニ参候儀も御座候、且又唐之通詞官共も日本へ之使者ニ付て参申候、就夫右人柄達之咄をも得と承候ニ、日本ハ唐・も結構成儀多御座候、増而朝鮮者申ニ不及儀ニ御座候と之事
一、前ニも申候通、東莱へ参而見申所ニ、町屋抔大分之儀ニ御座 候、日本所々いつれニも御座候町屋之如ク、端々ハ皆わるき町屋ニて御座候事
且又東莱之町、成程能町ニて種々成物を店へ出シ置売買仕候、日本之趣ニ何之相替候儀も無御座候事
且又東莱之町屋抔も皆かやふきと瓦ふきニて御座候、そきふきハ一円見へ不申候事
一、前ニ申候通多田与左衛門へ付候而東莱へ参申候、東莱ニても 客館有之、夫ニ滞留仕罷居候、滞留之内東莱之方・下行仕候米又野菜之類或鳥獣魚類ニても追々あてがい申候、種々成物ニて其内ニ日本ニて常々給不申物交りニ下行仕候、夫を以日本料理ニ仕而給申候事
一、朝鮮王・唐へ何そニ付使者被差越候時ハ、日本へ参候と同シ 事ニて正使・副使・従事以上三使を以被申候事
一、慶尚道之内熊川(是モ浦手ニテ萩ヨリハ西ノ方大分南ヱ上リテ有所也、俗ニコモカイト云)、此所・十三人乗之朝鮮人、元文二年霜月ニ三島へ漂流、夫・浜崎へ参候、加徳島と云島へ猟ニ参而流され右之通ニ候、此朝鮮人が申たる儀を記之
一、熊川・萩江慥三日三夜ニハ走り参而候と覚候事
一、日本耕作之仕様、殊外宜敷諸事参を入申候、朝鮮ハ中々是ニ 不及候事
一、当年之閏月之儀、日本ハ霜月ニて候所ニ朝鮮之閏月ハ九月と 申候、且又冬至ハ霜月晦日ニて候所ニ朝鮮之冬至ハ日本之閏霜 月二日ニ当り候と申候事
一、万歳を覚候者壱人有之、申させ承候所ニ、御国山口・かくしやうと申て萩へ出候万歳と申言葉相ニ少も相替儀無之、色々目出度儀を取集而申候、爰を以考候、山口・出候かくじやう之万歳ハ定而琳聖太子時代・伝りて申万歳ニて可有之と存候事
一、五年跡ニ対馬守殿・江府へ被申上候、慶尚道東之海辺ニ迎日 と云所ニびんげんぎと申浪人謀叛を企て* 十)釜山・東莱・蔚山抔之役人をも同意させ追付反乱躰ニ候が、其儀顕れびんげんぎを生捕、其外段々仕置有之と也、此儀を尋候得ハ答ニ、成程左様之趣ニ承候、乍然各ハ程隔りて居候故委敷不存と申候事
一、来年ハ日本へ若君御誕生御悦之使者朝鮮・参と之儀ニ候、各 が居候あたり・も水主ニ出、或ハ籏持か様之あたり何そ角そ之役ニ出申候筈と咄候、早頓ニ・其風説御座候と相聞へ候事
一、釜山浦之日本館も則慶尚道也、日本館・熊川へ之間相、陸ハ 二日路、海上ハ順風ニさへ候得ハ一日路ニて参候事
一、萩・蔚山へ間相之儀、殊外近キ事ニて候、方角ハ真西へ当り 候、一日一夜順風ニて走り候へハ着仕る積り候事
一、日本館・先キ一里半計に石碑立て有、夫・日本人不入込筈之定めニて候得共、鷹狩抔之時分、鷹がそれ候抔と云様成かこつけニて少々先キ之方へも左右へも参込候事
且又対馬・日本館へ在番ニ参候衆、鷹をもつれ参申候、朝鮮ニても鷹を取鷹狩仕、其外色々狩等ハ仕候事
一、都而朝鮮之諸所〆り之儀
府使 是ハ城ニ居住シテ其所ヲ治ルナリ
牧使 是モ城ニ居住シテ其所ヲ治ルナリ、最牧使ハ府使 之下ニ立相勤申役座ニテ候事
県令 是ハ亦牧使之下ニモ立テ治メヲ成ス役座ニテ候事
県監 是ハ亦県令之下ニ立テ治メヲ成ス役座ニテ候事
右之荒々を申也、凡右之趣を以治メ申候、且又万戸とハ船大持 を申候事
一、朝鮮之儀ニてハ無之候得共、席ニ咄承候故記置候、朝鮮人萩・長崎へ被送候時、浜崎・出ル道筋之儀、泰桓院様被仰付を以夫以来、御船倉・熊谷町へ通シ、夫・津守町・細工町之様行キ、片河町出、呉服町へ出、夫・順々本筋を椿町之様ニ罷出候事
朝鮮物語全部終
宝暦三年 井上光英書之
0 件のコメント:
コメントを投稿