釜山倭館は、大正14年の地図に当てはめた小田省吾によると、
「今此の和館のあった地域を現在の市街に比定すると、北は大庁町東西の通路を限とし、南は南浜町の海岸に接し、西は西町四丁目の道路を限とし、東は呼崎より本町一丁目、二丁目、三丁目に至る道路を限としたのである。」(小田省吾「釜山の和館と設門とに就て」『朝鮮』125号、153頁)
倭館の位置はほぼこれで間違いないが、その規模は、資料や研究者によって、それぞれ記述が異なる。
まず日本側の資料を示す。
出典資料・文献 倭館規模
①『対馬藩政治問答』(国立公文書館所蔵) 東西400間 南北250間
②宗家記録『移館一件』(分類記事大綱所収
国立国会図書館所蔵) 東西360間 南北220間
③「朝鮮筋之儀ニ付義真様阿部豊後守様江御書付を 東250間 西220間
以被仰上候覚」(九州大学文学部国史研究室所蔵) 北350間 南370間
とあり、専門家によっても、
出典資料・文献 倭館規模
④高橋章之助『宗家と朝鮮口絵』、
宗家記録『御国より朝鮮古倭館新館江渡口之図』、
同『草梁之絵図』(宗氏文庫所蔵) 東西450間 南北250間
⑤小田省吾「李氏朝鮮時代における倭館の変遷」
(『朝鮮支那文化の研究』所収) 東西350間 南北250間
⑥小田省吾「「釜山の和館と設門とに就て」『朝鮮』125号、153頁」
東278間 北289間
西224間 南373間
⑦「長正統「日鮮関係における記録の時代」『東洋学報』
東辺279間 西辺224間
北辺289間 南辺373間
<朝鮮学報 第79輯『17.18世紀日朝貿易の推移と朝鮮渡航船』より>
とある。一方、朝鮮側の資料によると、
出典資料・文献 倭館規模
⑧『通文館館志』、『増正交隣志』 東西372歩4尺 南北256歩
(1歩=1間)
とあり、日朝双方でも一致しない。
今となっては、釜山倭館遺構自体が不明であるので、境界標を四周に立てて、レーザー測定法などによる正確な距離測定は不可能である。したがって残念ながらこれらの食い違いが発生した原因も不明である。憶測の範囲を越えないが、時期によって倭館の規模が伸び縮みしたのか、測定位置が異なるのかなどであろう。
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