『朝鮮物語』には饗応場(宴享大庁)の大きさは百間四方と書かれているが,
武田勝蔵著『日鮮貿易史上の三浦と和館』には「宴享大廳三十五間」と書かれている。この両者の違いは饗応場という‘場’つまり敷地の広さが百間四方で、宴享大庁という‘建物’が三十五間ではないかと推測することができる。このように考えれば二つ史料の記述の違いにも納得がいくが、あくまで推測である。 饗応場の図 倭館関連図1
武田勝蔵著『日鮮貿易史上の三浦と和館』には「宴享大廳三十五間」と書かれている。この両者の違いは饗応場という‘場’つまり敷地の広さが百間四方で、宴享大庁という‘建物’が三十五間ではないかと推測することができる。このように考えれば二つ史料の記述の違いにも納得がいくが、あくまで推測である。 饗応場の図 倭館関連図1
宴享大庁における慰労の宴の内容については『朝鮮物語』に次のように
書かれている。
一、饗応之儀、飯をハ出シ不申候、只菓子酒肴計ニて段々饗応御座候事
一、毎年初之使者は双方之安否なとを問、或ハ書中なとも有之、饗応計御座候、且又二番目之使者ヨリ馳走に女楽有之候、女楽之人柄ハ東莱之傾国来て女楽を仕候、女楽之節者段々之囃子方也、楽器は十二弦琴・九弦琴・太鼓・鼓・笛・鉢等ニ而囃子申候事
現在、「トンネ鼓舞」の歴史を考えるときに、適切な資料であるに違いない。
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