対馬からこの釜山における草梁倭館までの道のりは松原新右衛門『朝鮮物語』に次のように記述されている。
一、対馬国さすな浦之関所ヨリ朝鮮釜山浦之船着迄、表方四十八里と云共甚近ク御座候、二十里計も御座候。但佐須那浦ハ三月ヨリ八月迄之出津場ニシテ、鰐浦を以九月朔日ヨリ三月朔日迄之出津場に定る也、さすな浦之儀冬に相成候てハ船之乗前悪敷きに依てなり、鰐浦ヨリも朝鮮へ之程、さすな浦同前候事
一、釜山浦船着ヨリ日本館迄之間、日本之程ニして一里有、尤浜伝ひニて候事
朝鮮物語の筆者松原新右衛門が生きていた当時、対馬国の佐須那浦の関所から釜山浦
の船着き場まで48里だといわれていたことがわかる。1里は3.9キロであるから、48里は約187kmということになる。ここで面白いことは日本と朝鮮との距離について書かれている史料で日本(対馬)から朝鮮の街が見えるというものはあるが、反対に朝鮮から日本が見えるというものはない。これが意図的なものかそうでないかはわからないが、ここには朝鮮の解禁政策の影響が反映されているのではなかろうかと思われる。
当時韓国の1里は日本の10分の1の長さであった。そのことは朝鮮物語に「(37)朝鮮之千里が日本之百里と積候か能御座候事」と書かれていることからわかる。
ところで対馬の港についてであるが、佐須那浦は対馬の最北部に位置していた。現在の
上県町にあたる。また鰐浦は佐須那浦の東隣に位置した。こちらは現在の上対馬町にあた
る。今では鰐浦地区の北側の山には韓国展望台があり、天気のいい日には釜山辺りを望む
ことができる。
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